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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑬織田信長はブラック大名か?(2)過酷な出世争い

歴史

このように信長の実力主義というものは徹底して行われていたことがわかる。例えば羽柴秀吉明智光秀が低い身分から能力を評価されて華麗な出世街道を走っていたのを見て、我々は優秀な上司織田信長に思いを馳せる。しかしながら、実力主義ということはそこで実力を発揮できずに落ちていったものもいるはずである。そこで、以下では織田家での出世競争に敗れた武士たちについて述べることにするのである。

 佐久間信盛という武将は一般的に知られていない織田家の家臣である。織田家の古くからの重臣と言えば新参の羽柴秀吉に対して柴田勝家が挙げられるが、佐久間信盛はこの2人よりもある時期では地位が上だったのである。楠戸義昭は信長が京都に上洛した時期を指しても「このころ、小者から身を起こした藤吉郎、また将軍義昭の仲介の労をとり、信長の家臣に加えられた明智光秀の台頭が著しくなる中、信盛はまさに彼らの上をゆく、信長が最も信頼する家臣であった」(楠戸義昭2004p71)と評価している。また、信長公記にはこのような話がある。

 

朝倉義景との合戦の最中に信長は「必ず今夜中に敵は退却するからその好機を逃すな」と言い放ち家臣に言明したものの、多くの家臣は信長の言うことを信じず結局、信長だけが敵を追いかけることになってしまった。それに信長は立腹し家臣に激怒した後に滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉などの歴戦の将が「信長公に先を越されし面目もございません」と謝罪したところ佐久間信盛だけが「そのようにおっしゃられるが、我々ほどの優れた家来をお持ちになることはめったにない」と、反論したのである。

 

 このように信長に何もモノを言い返せない家臣が多い中、信盛だけははっきりとモノをいうことができたのである。また、信長公記にはその後に信長が家督を息子の信忠に譲り岐阜城を出た後も、仮の住居としたのは信盛の館であったと記述しているし、このように佐久間信盛というのは、織田家臣の中では別格の存在であった。また、谷口克広は天正四年に信盛が柴田勝家と並んで方面軍司令官に任じられたと論ずる。谷口は方面軍司令官について、「方面軍は万与の軍兵を擁し、名だたる戦国大名と単独で矛を交えるのだから、その司令官は並大抵の者には務まらない。戦国の世の一流の武将たちと言えるだろう。並み居る信長の家臣の中でも、延べ六人しか到達しなかった究極の地位である。」(谷口克広2005pⅱ)と、説明している。しかしながら最終的に佐久間軍団は三河尾張、近江、大和、河内、和泉、紀伊と七カ国に渡る与力が与えられていることが判明しているので、方面軍司令官の中でも抜きん出た性質のものだったことがわかるのである。このように信盛は織田家の№2という地位にいたといっても差し支えないのである。

 

 しかし、その信盛も天正八年突如信長から追放されてしまうのである。以下はその信長が信盛に向けて書いた折檻状を一部抜粋したものである。全部で19条もあるので色々書かれているけれども、基本的には「お前は無能なので追い出す」と、いった内容である。前述したように佐久間信盛というのは、決して無能な武将と言える者ではなかった。信長との仲も比較的良好であったとも言えるし、出世街道を問題なく歩んでいたとも言える。どうして信盛が追放されたのかは、異説が色々あり定まったことは一つもいえないのであるが、元来佐久間氏は信長の父信秀からの譜代の臣の家で、桶狭間の戦いでは信盛の前の総領である盛重が討ち死にするほど信長に仕えた家系である。それを信長の一声だけで追放の処分にできることが、この時代での絶対的な上司である信長とそれに仕える家臣という力関係が出来上がっていたのが言えるのである。

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ここまで信長が過度な実力主義者であると論じてきたが、結局のところその実力と言うのも信長の気にいるか気に入らないかで気分次第で左右されていたようである。そうでなければ実力者であるはずの佐久間信盛が追放されるというのも変な話である。以下の表は一郡以上の領主に任命された人物の一覧である。(ただし、一門は除く)

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 以上の表を見てみると明らかに信長の出身である尾張と隣接する美濃の出身者が多く、また信長を裏切っているのはそれ以外の外様であることがわかる。要するに外様であれば織田家に不安を抱き謀反を起こし、譜代であってもいくら忠節を示そうと信盛や直政のように信長の心情如何で簡単に没落していってしまうのである。池上は織田家のこのような環境を以下のように述べる「戦功を積み重ねても、謀反の心をもたなくても、信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない不安定な状態に、家臣たちは置かれていた。一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣にはより強い不安感があった。独断専行的で、信長への絶対服従で成り立っている体制が、家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。」(池上裕子2012p276)

 

このように信長の過度な強権、独裁は信長の強さであると同時に弱さでもあった。信長の独裁はすぐに謀反を招きその基盤は常に不安定であったとも言えるのだ。