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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑫織田信長はブラック大名か?(1)武士の労働条件の否定

(1)武士の労働条件の否定

 前に織田家の特質は兵農分離にあると論じた。しかしながら、兵と農を分離させるということは、土地に根ざした武士というのを否定することである。一章では鎌倉・室町時代の武士が何よりも土地を「所有」していたことを論じた。その武士の土地の所有を信長は兵農分離を行うことで否定しようとしたのである。藤田は兵農分離を行う条件としてこのように論ずる「軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・領民との絆を否定することが前提となる」(藤田達生2014p22)

 このように信長が行ったことは武士と土地を切り離すことであった。そのために[i]信長は自身の拠点を行く度も変更した。①那古野城②清須城③小牧山城岐阜城安土城と、実に四回も移転しているのである。特に安土城の関しては[ii]妻子を連れて引越しをしない家来に対して、尾張にいる妻子の家を焼き強制的に安土へ移住させたという話もある。このように家臣を自身の城下町へ集めることに並々ならぬこだわりがあったことが伺えるのである。

 また、藤田は信長がかなり強権的な城割を大和で行っていたことを指摘する。城割というのは江戸幕府が行ったような「一国一城令」と、同様のものでその国の城を本城を残して破壊することである。また、それにあわせて検地をも行った。藤田によれば「城割と検地によって、理念的に大和一国は明確に織田領になったのであり、筒井氏は信長の代官として領地・領民・城郭を預けられたのである(後略)」(藤田達生2014p100,101)要するに信長は、一旦土地を自分のものとし詳細に調べ上げた上で家臣に「預け」たのである。これは、従来までの大将の役割とされた御恩、本領安堵新恩給与を否定する行為であったとも言える。例えば信長は重臣である柴田勝家に越前を与えた時に国掟を定めた。その内容にはこのようにある「一、越前という大国を預けておくからには(後略)」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)つまり、信長が家臣に土地を与えたのではなく、「預けた」ということが明確にされている。また、「一、新しい事態が生じた場合でも、何事においても信長が申す指図に従って実践する覚悟が肝要である。(中略)とにもかくにもわれわれを尊敬し、たとえうしろ影を見たとしても、おろそかに思ってはならない。われわれのいるほうへは足をも向けぬ心がけでいることが肝心である。」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)とある。何かが起きても信長の言うとおりに行動せねばならず、大国を預けられたといってもその権限は基本的に信長に由来するものであることが分かる。また、信長を敬い尊敬し絶対的な忠誠心を持つことが求められていることがわかるのである。

 このような信長の政策を藤田は「預治思想」と名づけた。具体的にいうと「彼が到達したのは、家臣団に本領を安堵したり、新恩を給与したりする伝統的な主従制のありかたを否定し、大名クラスの家臣個人の実力を査定し、能力に応じて領地・領民・城郭を預けるという預治思想だった」(藤田達生2010p177,178)

 このように信長は従来のやり方ではなく、「実力主義」により、武士の能力を測りその能力によって、武士に土地を「預けて治めさせた」のである。実力主義ということは、その土地に相応しくないと判断されれば直ちに没収されることを意味していた。それは、前章で述べた武士の「終世雇用」をも否定することである。

 信長の家臣に塙(ばん)直政という武将がいる。元は信長の馬周りでその中の精兵集団赤母衣衆の一員である。しかし、只の馬周りではなく信長の上洛後に京都の行政に携わり次第に頭角を表していったのである。さらに天正三年に信長のはからいで明智光秀羽柴秀吉と共に官位と性を賜り「原田備中守直政」と証した。また、南山城と大和を支配し、その時代で柴田勝家が越前八郡、羽柴秀吉が北近江二郡、明智光秀は北山城と近江一郡であり、この時点で馬周り出身の直政が並み居る武将と同格以上の待遇であったことがわかる。

 さて、この直政は後述の佐久間信盛の前任者として対本願寺の責任者として任じられていたのであるが、その合戦の最中に戦死してしまったのである。ここまでこの時代の雇用慣行であった終世雇用の常識に当てはめて考えてみれば、直政の子孫は優遇されるはずである。しかしながら、信長は直政の一族郎党を厳しく追及したのである。谷口克広は「生命を失うほどの戦いを敢行した者に対して、信長の仕打ちはあまりに冷酷といわねばならない」(谷口克広2011p70)と、述べている。

 このように織田家中においては前述した『朝倉宗滴話記』の第11条のような「大将たるものは(中略)第一に家来たちがよく成り立って行くようにと、普段から心がけねばならぬ。忠実に奉公を尽くした者の後はことにそれを取り立て、幼少の子どもがあったならば、無事に成人するように、面倒を見ることが肝心である。」

 の精神はなかったのである。このように親の討ち死にで子が出世という雇用慣行に反して織田家中においては討ち死にというのを失態として捉え、その責任を一族に負わせたのである。

 

[i] その他、京都への交通を優先したためでもある

[ii] 信長公記「家来集の妻子を安土に移す」

上で織田家の特質は兵農分離にあると論じた。しかしながら、兵と農を分離させるということは、土地に根ざした武士というのを否定することである。一章では鎌倉・室町時代の武士が何よりも土地を「所有」していたことを論じた。その武士の土地の所有を信長は兵農分離を行うことで否定しようとしたのである。藤田は兵農分離を行う条件としてこのように論ずる「軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・領民との絆を否定することが前提となる」(藤田達生2014p22)

 このように信長が行ったことは武士と土地を切り離すことであった。そのために[i]信長は自身の拠点を行く度も変更した。①那古野城②清須城③小牧山城岐阜城安土城と、実に四回も移転しているのである。特に安土城の関しては[ii]妻子を連れて引越しをしない家来に対して、尾張にいる妻子の家を焼き強制的に安土へ移住させたという話もある。このように家臣を自身の城下町へ集めることに並々ならぬこだわりがあったことが伺えるのである。

 また、藤田は信長がかなり強権的な城割を大和で行っていたことを指摘する。城割というのは江戸幕府が行ったような「一国一城令」と、同様のものでその国の城を本城を残して破壊することである。また、それにあわせて検地をも行った。藤田によれば「城割と検地によって、理念的に大和一国は明確に織田領になったのであり、筒井氏は信長の代官として領地・領民・城郭を預けられたのである(後略)」(藤田達生2014p100,101)要するに信長は、一旦土地を自分のものとし詳細に調べ上げた上で家臣に「預け」たのである。これは、従来までの大将の役割とされた御恩、本領安堵新恩給与を否定する行為であったとも言える。例えば信長は重臣である柴田勝家に越前を与えた時に国掟を定めた。その内容にはこのようにある「一、越前という大国を預けておくからには(後略)」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)つまり、信長が家臣に土地を与えたのではなく、「預けた」ということが明確にされている。また、「一、新しい事態が生じた場合でも、何事においても信長が申す指図に従って実践する覚悟が肝要である。(中略)とにもかくにもわれわれを尊敬し、たとえうしろ影を見たとしても、おろそかに思ってはならない。われわれのいるほうへは足をも向けぬ心がけでいることが肝心である。」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)とある。何かが起きても信長の言うとおりに行動せねばならず、大国を預けられたといってもその権限は基本的に信長に由来するものであることが分かる。また、信長を敬い尊敬し絶対的な忠誠心を持つことが求められていることがわかるのである。

 このような信長の政策を藤田は「預治思想」と名づけた。具体的にいうと「彼が到達したのは、家臣団に本領を安堵したり、新恩を給与したりする伝統的な主従制のありかたを否定し、大名クラスの家臣個人の実力を査定し、能力に応じて領地・領民・城郭を預けるという預治思想だった」(藤田達生2010p177,178)

 このように信長は従来のやり方ではなく、「実力主義」により、武士の能力を測りその能力によって、武士に土地を「預けて治めさせた」のである。実力主義ということは、その土地に相応しくないと判断されれば直ちに没収されることを意味していた。それは、前章で述べた武士の「終世雇用」をも否定することである。

 信長の家臣に塙(ばん)直政という武将がいる。元は信長の馬周りでその中の精兵集団赤母衣衆の一員である。しかし、只の馬周りではなく信長の上洛後に京都の行政に携わり次第に頭角を表していったのである。さらに天正三年に信長のはからいで明智光秀羽柴秀吉と共に官位と性を賜り「原田備中守直政」と証した。また、南山城と大和を支配し、その時代で柴田勝家が越前八郡、羽柴秀吉が北近江二郡、明智光秀は北山城と近江一郡であり、この時点で馬周り出身の直政が並み居る武将と同格以上の待遇であったことがわかる。

 さて、この直政は後述の佐久間信盛の前任者として対本願寺の責任者として任じられていたのであるが、その合戦の最中に戦死してしまったのである。ここまでこの時代の雇用慣行であった終世雇用の常識に当てはめて考えてみれば、直政の子孫は優遇されるはずである。しかしながら、信長は直政の一族郎党を厳しく追及したのである。谷口克広は「生命を失うほどの戦いを敢行した者に対して、信長の仕打ちはあまりに冷酷といわねばならない」(谷口克広2011p70)と、述べている。

 このように織田家中においては前述した『朝倉宗滴話記』の第11条のような「大将たるものは(中略)第一に家来たちがよく成り立って行くようにと、普段から心がけねばならぬ。忠実に奉公を尽くした者の後はことにそれを取り立て、幼少の子どもがあったならば、無事に成人するように、面倒を見ることが肝心である。」

 の精神はなかったのである。このように親の討ち死にで子が出世という雇用慣行に反して織田家中においては討ち死にというのを失態として捉え、その責任を一族に負わせたのである。

 

[i] その他、京都への交通を優先したためでもある

[ii] 信長公記「家来集の妻子を安土に移す」