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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑪織田信長はブラック大名か?織田家の労働環境

歴史

 織田信長という人物は、非常に人気の高い人物である。例えば2009年の転職サイトのリクナビNEXT[i]「上司にしたい戦国武将ランキング」では、1位に輝いているし、同じく転職サイトのORICONキャリアの[ii]「上司にしたい偉人」には2位にランクインしている。他にも様々な媒体、ランキングで好成績を収めており、戦国時代のみならず日本史を代表する人物である。

 さて、その信長が現代人にウケル理由として、革新性とかカリスマ性が挙げられる。例えば身分の低かった秀吉を登用したりといった能力主義、当時としては革新的(と、される)政策を行ったりといった合理主義、桶狭間の戦いなどに見られる優れたリーダーシップが評価されてのことだろう。確かに織田家(信長の弾正忠家)は、尾張を守護する斯波氏の守護代、織田大和守家に使える三奉公の一つでしかなく、斯波氏の家臣のそのまた家臣という、決して高い身分の出身ではなかった。

 そんな環境から日本を統一する一歩手前まで、勢力を広げたということは、並大抵の武将ではないということに異論を挟む余地はないであろう。しかしながら、そのような急激な勢力拡大や革新性に家臣はついていくことができたのだろうか。やはり、家臣の方にも並大抵以上の苦労があったのではないかということは、容易に察せられることである。果たして信長というのは現代の我々が思うような「理想の上司」であったと言えるのだろうか、そんな織田家の労働環境とは、ブラック企業ならぬブラック大名家ではなかったのではないだろうか。そこで、本章では織田家の労働環境について当時の戦国大名と比べて、どの程度違い、どのようなものであったのかを、考察するのである。

1織田家の労働環境

 この時代の武士の職分は、戦働きにあった。戦場に出て槍働きをするのが、武士のお仕事であったので、職場は戦場にあったといえる。そこで、織田家と他家との戦争の特質の違いから労働環境を考察することにするのである。下記は信長の主な戦争と、上杉謙信の出兵パターンを比べたものである。

2 信長の出兵パターン 出典 太田牛一『信長公記

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 3 上杉謙信の出兵パターン 出典 藤木久志『雑兵たちの戦場』

 

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 まず、上杉謙信の出兵パターンには二つの特徴があると、藤木久志は指摘する。「目立つのは、晩秋にかけて年末に変える冬型(短期年内型)の戦争と、晩秋に出かけて年を越し、春か夏に帰る冬春型(長期超冬型)の戦争で、関東出兵には冬春型(長期超冬型)が多い。これと、反対に、北信濃や北陸への出兵は、ほとんどが冬型(短期年内型)や短期の不定期型で、とくに決まった傾向がない」(藤木久志1995p94)

 表でも一見して分かるように関東への出兵が11月と冬に集中し、帰ってくるのが、2、3月と春に帰還していることがわかる。このようにこの時代の上杉氏の戦争には秋冬に軍事行動をという季節性があることがわかる。

  このような季節性はどうしてうまれるのか。藤木はこのように論ずる「二毛作のできない越後では、年が明けて春になると、畠の作物が穫れる夏までは、端境期といって、村は深刻な食糧不足に直面した。冬場の口減らしは切実な問題であった。」(藤木久志1995p96)

 このように戦国の戦争は農業と密接な関係があった。上杉謙信の出兵パターン表をみても収穫の終わった11月以降に関東へでてそこで食いつなぎ、手柄をもって春に帰還しているということがわる。また、この時代の兵は多くの場合農民を主体とした傭兵である。11月に出兵することは、農閑期で農業の終わった農民を連れていくという意味もある。つまり、より多くの兵を連れて行くには農閑期でなければならなかったのだ。

 これに対して、信長の場合はどうだろうか。表をみると暖かい四月から八月にかけて軍事行動を起こしているのが目立つが、年末や年明けに出兵したりと、特に合戦を行う時期が限定されていないことがわかる。この織田家の特質はどのように生まれたのであろうか。[iii]藤田達生はこれを兵農分離によるものだと説明する。兵農分離とは、兵を専業化させ農業から離れさせることで、農業の時期に左右されない独立した軍団を創出することである。これにより、信長は抜群の機動力を持った「時期に限定されない軍隊」を持つことができたというのである。

 しかしながら、時期に限定されない軍隊というのは、毎日が繁忙期みたいなものである。農閑期に軍を起こし農繁期に軍を休める上杉家の軍事行動と反し、織田家では農閑期でも農繁期でも戦争を行うことができる。これは決まった休みを持たない常に戦争をし続けることであり、織田家の武士からすれば過剰な労働恒常的に求められたのではないかと言えるのではないかと考えるのである。特に1568年京都へ上洛を果たしてからは、西へ東へ縦横無尽に戦場が広がっているのである。織田家に仕える武士としては息つく暇もない労働環境であったのではないかと考えられるのである。

 池上裕子は織田家の戦争の特質を「軍役数を規定せず、各武将の裁量で兵力をできるだけ多く組織させ、際限もなく連続する多方面攻撃に思いのままに動員するというのが信長の戦争仕方であった。」(池上裕子2012p264)と、述べているように織田家においてはどれぐらいの兵を持っていくのかも規定がなく、各自の裁量に任されていた。しかし、それは例えば自身にとって楽になるように設定できるわけでもなく「どれだけの兵数を率いるかも忠節心の度合いを示すものとして信長の目が光るであろう。」(池上裕子2012p264)と、どれだけ連れて行くかによって信長に覚えがめでたくなるかの度合いが決まっていたのである。それをせずサボってしまえば後述する佐久間信盛のように追放の憂いき目にあうのである。

 

[i] リクナビNEXT「上司にしたい戦国武将ランキング」

 http://next.rikunabi.com/01/sengoku_sengoku/sengoku_sengoku.html

 

[ii]ORICONキャリア【働きビト】上司にしたい偉人1位に「坂本竜馬http://career.oricon.co.jp/news/75997/full/

 

[iii]藤田達生『信長革命「安土幕府」の衝撃』