もめなへむみ

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連載【戦国時代型労働思想】武士は忠義ものか

 ここまで武士から忠義という概念をはずし、我々となんら変わらない功利的な労使の関係に基づく労働者であると論じてきた。武士の忠節の最たる行いとされる「討ち死に」も死ねば得となる社会だから起こったものであり、その名誉も子孫のためを思えばこその利益の交換であった。

 しかし、例えば「我に七難八苦を与えたまえ」という名言で有名な山中幸盛のように何度も主家の再興を目指し立ち上がり、最後には捕らえられ殺されてしまったような武将もたくさんいる。また、石田三成のように豊臣家のために義に殉じた武将だっていると異論を挟む人も多いと思う。

 しかしながら、そのような武将も本当に忠義の士であったのかと、いうのは、本論の趣旨からすれば異論を唱えざるを得ない。史料的に実際はどうだったかを論じる余裕はないし、そのような能力もない。ここでは、どうして我々が武士に忠義があると勘違いするのかを述べることにする。

 例えば武士が「私は褒美も土地もいりませんただ主君のために仕えるのみです」と発言したところ、これを我々は忠義ととるべきだろうか。武士が労使の関係であると考える以上、その武士の言葉や行動もまた労働者の考えかたであると考える。この発言を現代に置き換えて改めるとこうなる。労働者「社長のためなら給料も何もいりません」果たしてこの言葉からは愛社精神を読み取るべきであろうか。普通の人はこの行為をおべっかとか、お世辞と捉えるだろう。しかるに武士の上記の発言だけ忠義の士、武士の鑑であると捉えるのは如何なものかと考えるのである。

 社会心理学用語に「帰属の基本的エラー」という言葉がある。山岸俊男はこれを「相手の行動から「相手の意図」を推し量る性質が人間におきる認知の間違い」(山岸俊男2015p93)と、説明している。山岸俊男によると例えばキャバ嬢が親切によく話してくれるのを自分に好意があるのではと考えたり、遅くまで残業している人を、仕事が大好きな会社人間と判断したりといった具合である。後者の場合で言えばたとえ自分が嫌々ながら残業していたとしても、他の人が残業しているのをみると嫌々ながら働いているのではなく、愛社精神豊富な人間だと判断する。これが「帰属の基本的エラー」だと説明する。

 これは、武士の発言の場合にも同様のことがいえるのではないかと考える。つまり、お仕事で「私は褒美も土地もいりませんただ主君のために仕えるのみです」と、発言しているのを、武士は忠義に生きる者だからおべっかでもお世辞でもなく、本心からであると「帰属の基本的エラー」を起こしていないだろうか。それは、キャバ嬢に騙されるお客と同じではないかと考える。討ち死にした武士をみてどうして討ち死にしたのか、それは忠義者であったからだと考える。しかしながらそれは内部の気質的な面を重視して外部の死ぬことで得する社会であったという状況的な面を排除した考え方である。例えば歩きスマホする子を性格まで最悪な人間だと判断したり(歩きスマホすることと性格は関係ない)討ち死にする武士を忠義者だと判断したり(討ち死にと忠義は関係ない)ということである。このように帰属の基本的エラーが働いているのではないだろうか。

 以上のように考えるならば、今一度、忠義の士だとか、義に殉じた武将だとかという評価も再考されるべきではないかと考えるのである。