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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑨去留の自由と終世雇用

歴史

 (1)去留の自由

 ここまで武士というのは、主従の絶対的な関係ではなく功利的な労使の関係で、かつ大名と対等の存在で、名誉意識が高く反逆権を有していたと述べた。

 しかし、そうした扱いにくい武士たちの就職環境とはどのような状態だったのだろう。上に述べたことの通りならば行く先々でトラブルばかり起こし禄に主に仕えることはできなかったのではないだろうか

 

佐藤進一は鎌倉から南北朝での伝統的な武士の身の振り方をみて「譜代の家来には忠誠義務があり、そうでない家来には謀反の自由があるということになる」(佐藤進一1965p177)と述べこれを去留の自由と説明した。また、小和田哲男氏は去留の自由をより詳しくこのように説明する。

「仕えた主人に、そのまま仕えて留まるのもいいし、主人を見限って去るのも自由であるということで、主人を裏切ることが、決してうしろめたい、やましい行為ではなく、武士たちの当然の権利として認識されていたことを示している。(中略)自分が仕えた主人が、自分の能力を引き出してくれないとか、あるいは、自分が思ったほど知行をくれないとか、不満をもった場合そこを飛び出すのは勝ってだった。」(小和田哲男2014No.28)

 主従の関係が労使の関係であると考えるならば、当時の就職環境は比較的自由なものであったといえる。それは、武士が必ずしも地縁・血縁に縛られたものではなく、自らの自由な意思によって職場先を取捨選択できたことを示している。また、本来の武士において「忠臣は二君に仕えず」という態度は幻想であったということも分かる。

 それは、佐藤が「譜代には忠誠義務があり」と述べているが、戦国期を通して譜代も去留の自由を獲得していったからだ。例えば藤堂高虎は「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ。」と、有名な言葉を残して、自身も十人の主君に使えているし、今年、大河「真田丸」で登場した穴山梅雪は武田家一門であっても、落ち目の主家を見限り織田へ鞍替えしているのである。朝倉景鏡も朝倉家の一族かつ重臣ながら主君義景を自害に追い込み織田家へと転職していったのである。このような例を挙げれば枚挙に遑がないことからも必ずしも少なくとも戦国時代においては佐藤のいうような譜代においても忠誠義務が課せられていないことが分かるのである。このような戦国時代の就職事情は現代の職場事情が転職を推奨せず、新卒主義であることとは対照的である。

(2)終世雇用

 ここまで武士という存在を武士階級ではなく、戦働きに従ずる労働者であると述べてきた。労働者であるはずの武士にはこれまで考えられてきた「忠義」の概念などではなく、功利的なドライな関係であったはずだというのが、ここまでの趣旨である。

 ひとまず武士から忠と言う概念を捨てて考えるのが本論の要である。その場合、戦国武士ならぬ多くの武士が命を捨てて戦場に散っていた「討ち死に」という行為はどのように考えるべきであろうか、主君のために命を捨てて奉公している武士の行動こそまさしく「忠義」の姿勢ではないだろうか。いや、しかし、それすらも功利的な関係に基づいた損得計算が働いた行為であったと述べるのが本筋の内容である。

 一般に当時の武士(にかかわらず普通の民衆も)が名誉に非常にこだわっていたことは述べた。それでは、どうして武士は名誉に強いこだわりがあったのだろうか。先の万五朗も武士が功利的な関係であるならば、ここはグッと堪えて耐えて忍ぶか、他国に亡命をすればいい話である。しかし、万五朗はそれをせず自身を侮蔑した主君を殺し、切腹した。己の名誉を示し、守ったのである。功利的な関係であったと考えるならば、ここでは己の名誉を守ることで得をする社会であったからだと考えるべきである。

 武士の最大の人生目標はなにであったか。武士の仕事が戦働きにあったことから、自身の土地を広げ大きくすることと勘違いしがちであるが、事実はその土地を子孫に継がせることにある。家永も「何が究極の目的であったかと言えば、一家を全うし子孫を繁栄させることであったのである。」(家永三郎2007p105)と、述べているように、また、菅野の武士の定義の二番目にも「武士は、妻子家族を含めた独特の団体を形成して生活する」と、あるように武士と家族(あるいは「家」と言い換えてもいい)は密接な関係にあった。

 しかしながら、武士の言う子孫というのは必ずしも「血」が繋がっている必要はなかった。これは現代の天皇が男系という血統にこだわっているのとでは、対照的であるが、武士は血統が続くことよりも家が絶えることの方を問題視していた。例えば鎌倉将軍は、初代「源頼朝」の血統は三代目で絶え、四代目からは京都から有力者の子息を迎え入れ「将軍家」を継がせたのである。頼朝の直接の血統は絶えたとはいえ未だ代わりの源氏の血はいくらでもいたのにである。また、一般に士農工商で知られ身分に厳しかったと言われる江戸時代でも困窮した武士が金銭と引き換えに農民や町人に[i]御家人株の売買を行っていたこともある。このように武士は血よりも家を大事にしていたのである。

 家を大事にしていた武士が、何にも増して名誉を大事にしていたということは、その名誉が家の存続に関わるのではないのかと考えられるのである。それでは、いかにして名誉は高められることになるか。

それは名誉ある死「討ち死に」に他ならない。例えば、結城氏新法度代42条に「中臣の子孫が窮乏しているならば、我々にとって由々しき問題である。質屋より元金も利子も3分の1に免じてもらうべきである(後略)」(クロニック戦国全史1995p740)とある。ここでいう忠臣の子孫というのはおそらく討ち死にした者の子孫ではないかと考えられるが、(普通に仕えて貧乏になっただけでは、忠臣とはみなされないだろうし、親が病死した場合と考えても忠臣の子孫とするのは弱いと考えるからだ。)親が討ち死にした場合は利子を負けて貰えるという特典が与えられた。『朝倉宗滴話記』の第11条にも「大将たるものは(中略)第一に家来たちがよく成り立って行くようにと、普段から心がけねばならぬ。忠実に奉公を尽くした者の後はことにそれを取り立て、幼少の子どもがあったならば、無事に成人するように、面倒を見ることが肝心である。」(小和田哲男1981p189、190)

と、忠誠をもって死んだ者に幼い子がいたならば、成人まで面倒をみるのが「大将の勤め」と、している。このような考え方であれば、「自分が死んだとしても家の面倒は見てくれる。ならば、華々しく討ち死にして子供を取り立てて貰おう」と、武士が考えても不思議はないのである。ここで父の功績(討ち死に)により、子が優遇されたケースをいくつかあげる。

 中川秀成は賤ヶ岳の戦いで戦死した清秀の次男である。長男、秀政が暗殺された。討ち死にとは違い暗殺など「無覚悟」の時は所領が没収されることになっていたが、父、清秀の功績により半分だけ相続することを許されたのである。

鳥居元忠関ヶ原の際、伏見城に数千で居残り、数万の西軍の大軍の前に討ち死にした。通常、徳川幕府内での譜代の石高は井伊家の10万石が良いほうなのであるが、子の忠政は山形藩24万石の大名に昇格している。

土屋昌恒は織田・徳川の甲州征伐において逃亡する主君、武田勝頼の自害の時間を稼ごうと追いかけてくる敵兵を切り最後は討ち死にした。家康は後に昌恒の子孫を探し出し二万石の大名にした。

 このように名誉ある死は本人の死後も子孫に遺産として受け継がれることが多々であったのである。しかも、それは昌恒の例を見るように有士の子は敵にも認められ面倒をみられることがあったのである。このように武士の世界と言うのは死ぬことが得となる社会だったのである。

それでは、逆に生き残った場合はどうなったのであろうか。名誉ある死の反対のケース不名誉な生、生き恥である。

 木下勝俊は先の鳥居元忠と共に伏見城に残った。木下という名字からもわかるように秀吉の親戚である。その際、数万の西軍の兵士に城が囲まれる前に逃亡しそのことが原因で妻にも愛想をつかされ、離婚された。また、関ヶ原後には改易処分となっている。討ち死にした鳥居の子孫が優遇されたのに対し対照的である。

大友義(吉)統は豊後(今の大分)の戦国大名である。秀吉の九州征伐に際して仇敵、島津氏から助けてもらい、後に秀吉に謁見した時に秀吉の「吉」の字と羽柴姓を与えられたことから秀吉に気に入られたようである。しかし、朝鮮出兵の際に味方を見すてて逃げたことから、秀吉の怒りを買い改易された。

このように戦争で逃げ帰り、例え生き残ったとしても土地を没収され路頭に迷うことになるのである。武士が家の相続を目標とした以上は、このような選択をするのは損をすることに他ならない。生きて子孫に家を相続できないのであれば「死んで子孫に託そう」という選択をとると言うのは、決して不思議な話はないのである。これが、死ねば得をする社会である。また、武士が名誉を大事にする理由は、自身の羨望を集めるものではなく、子孫のために残す功績であったのである。そして、討ち死にとは利益の交換に他ならず、それは、親の功績が子孫に受け継がれそれ如何によって子孫の進退が決まるその様子は「終世雇用」とも言えるものであったと考えるのである。

 

[i] 笠谷和比古『武士道と日本型能力主義』御家人株の取得