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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑧戦国武士の労働者意識

歴史

 戦国武士と大名の関係は極めて対等に近い関係であったことを前節で述べた。そうであるならば、戦国武士というのはどのような考えで主に仕えていたのであろうか。本節ではその戦国武士の労働者意識を考察することにするのである

 それでは、関東の戦国大名千葉邦胤(くにたね)の話から見て考察してみる。以下は『千葉伝考記』に載っている話である。以下、旧字体は新字体に改め所々現代語訳に直して引用する

「千葉介邦胤横死の事」

「(前略)天正十六年(1558)年戌子正月初旬、新年のお祝いに毎年配下の者と宴をしていた。そこに鎌田万(萬)五郎という18歳の近習が配膳を勤めていたところ、二回オナラをした。そのことに邦胤が大いに怒りこれを叱った。しかし、万五朗は中央に赴き「このたびの失態は、仕方のないことなのにみんなの前で叱り、恥をかかせることは如何なものか」と、はばかることなく反論した。このことに邦胤は激怒し万五朗を蹴り倒し短刀に手をかけたのを家臣一同が言い含めて思い留まらせた。

 (万五朗は)閏五月中旬に許されて、働き始めたが、未だ(邦胤のことが)許せず二六時中、邦胤を殺す機会を伺い続けた。七月四日の夜に邦胤の寝床へ忍び入り二度刺して逃げた。邦胤飛び起きて「憎い小僧も何をする」という叫びを隣の部屋にいる者が聞きつけ寝床に入ってみると、邦胤は真っ赤に染まっており「鎌田を逃がせず生け捕れ」と言い残し亡くなった。家来が驚いて、あちこち探してみたけれども、見つけられなかった。しかし、鎌田は夜のことなので門が閉まっていたので、物陰に隠れていた。そして、明け方に塀を乗り越え逃走し、菊間村に落ちのびたが、追っ手がたくさんやってきたので、林の茂みに入り切腹した。」(近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948839/1 p111、112)

 

 新年の会で粗相をし、主君に叱られた家臣がそれに恨みをもって終には主君を殺害してしまうという凄まじい話である。

 さて、ここで注目するのがどうして万五郎が主君である邦胤を殺害するに至ったかである。ここでは近習たる万五郎の武士として主に仕えるべき忠義の姿勢が微塵も感じられないばかりか、半ば逆ギレに近いものであり、現代で例えれば遅刻を責められた部下が上司に暴行をしたというものであり、現代の倫理感で言えば理解を得られる行動ではないだろう。そのために戦国時代特有の何かの謀があり、暗殺したという考え方もできるが、この史料を見る限りその兆候は見られない。この史料から見られるのは、単に「気に入らないから殺した」である。しかも、騒動が起きたのは「一月」であり、万五郎が邦胤を殺害したのが「七月初頭」である。役六ヶ月の間、万五郎が主君である邦胤を恨み続けたことになる。単に万五郎が執念深く万五郎の性格に起因するものであれば話は簡単になるのであるが、万五郎に隠れて目立たないが、主君の邦胤も家臣に諌められて謹慎処分にしたものの一度は自身に反論する万五朗のことを刀を抜いて(おそらく)殺そうとした邦胤も異常であるといえば異常である。こうした現代人では推し量れない行為の背景にあるのは何だろうか。

 

清水克行は、『看聞日記』には祭りの日に不始末をした田舎人がそれを遊女に笑われたのに怒りその遊女を切り、続いてその主人をも切り殺し、切腹して果てたという記述があることから、室町人には強烈な名誉意識があったと述べる。しかも、その笑う・笑われることを原因とした殺傷事件が頻繁に起きてるということを見て清水は「この時代の人々は、侍身分であるか否かを問わず、みなそれぞれに強烈な自尊心「名誉意識」をもっており、「笑われる」ということを極度に屈辱に感じていたのである」(清水克行2006p16)と述べ、この時代の人間が強烈な自尊心を持っており、それを守るためになら相手を殺して屈辱を晴らすことも辞さなかったという倫理意識を持っていたことが分かる。

 次に清水は、応仁の乱での東軍総大将である細川勝元の少年期にもこんなことがあったことを説明した。囲碁をしている二人の少年の片方に勝元が助言をした。それに怒ったもう一人が自宅から刀を持ってきて、勝元に切りつけたのである。このことに関しても清水は「この時代の武士の間には、主従の間の上下の秩序よりも、みずからの自尊心や誇りを維持することの方がときとして優先され、それが「下克上」を生み出す原因ともなっていたのである。」(清水克行2006p27)そこらの町民同士のイザコザから殺人に発展するのならいざ知らず、この時代の人間は名誉を傷付けられれば「主殺し」をも行うというのである。

 このように見てみると、万五郎が邦胤を殺害した動機も邦胤や万五郎を殺害しようとした動機も理解できるものになる。万五郎は皆が集まる衆目の面前で、罵倒されたことで名誉を傷つけられたために憤慨し邦胤を殺害し、邦胤も普段なら格下である万五郎に衆目の面前で反論されたために主としての面目を失い許せなかったのであると考えられるのである。そしてこの万五郎や邦胤の持つ「名誉意識」こそが、この時代の武士たちの一つの労働者意識であると考えるのである。

 しかしながら、「名誉意識」といった場合に主君を殺すことは「不名誉」なのではないかという疑問がある。実際、現代では何か上司に言われれば黙って従うだの、会社のために滅私奉公をする愛社精神を持つのが美徳として語られている節もある。また、一般的にも武士というのは主君に対して殉ずることが名誉と考えられている。しかしながら、それとは全く逆の行動をとった戦国時代の武士を支えた名誉意識とはどのようなものだったのだろうか。

戦国時代に訪れたイエズス会宣教師ヴァリニャーノは日本巡察記のなかで

「この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末であるが、これによって彼らは名誉を失いはしない。(中略)実際、日本における主従関係ははなはだ放縦で、ヨーロッパにおけるとは異なり、諸領主の支配権なり地位は我等のものと違っているので、彼等の間に裏切りや謀反が起こるのは不思議とするに足りない」((著ヴァリニャーノ/訳松田武一他1973p17,18

 と、述べている。驚くべきことにこの時代の武士の意識としては、反逆することで名誉を失うこととは考えられなかったのである。これは、そもそも気に入らない主君には反逆をすることが当たり前だという当時の風俗があったのではないかと考えられる。