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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑤武士のニーズ

歴史

 それでは具体的にどのような点が「自分たちの利益になり得ない」と考えるきっかけになり、何を「新しい組合長」に求めたのだろうか、端的に言えば武士が奉公をするにあたっての「労働条件」とは何であったのだろうか。単に御恩として本領安堵新恩給与の二つが満たされるだけで満足していたのであろうか。しかし、それならば永仁の徳政令のような御家人を大事にし、御家人贔屓の政策をとった鎌倉幕府はどうして滅亡してしまったのだろうか。それには何かしらの不満が溜まり鎌倉幕府を否定する(否定しなければならない)情勢があったはずである。そこで、鎌倉幕府滅亡から建武の新政を経ての室町幕府成立までの武士の動向を追う形で武士のニーズとは何だったのかを述べることにする。

 

まずは鎌倉幕府室町幕府の権力闘争からその性格の違いを明らかにしたいと考えるのである。以下の図はそれを表にしたものである。

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図2 鎌倉幕府室町幕府の内乱の違い

 一見して分かるとおりに鎌倉幕府においては、中央での主導権争いが多く、室町幕府においては、有力守護家に対する討伐又は反乱が頻発していることがわかる。

 裏を返せば室町幕府には幕府の討伐対象に入るほどの力を持った大名がいたのに対し、鎌倉幕府にはそのような大名はいないため、一昔前の自民党民主党のように内部での主導権争いが行われていたのである。このようにみると、中央集権的な鎌倉幕府と、地方分権的な室町幕府という性格の違いが明らかになるのである。

 従って、時代の流れを鑑みれば、武士は中央集権を否定し地方分権を目指したということになる。そこに武士のニーズ、労働条件が見えるのではないかと考えるのである。

それでは、何故、武士が地方分権を目指したか、換言すればどうして鎌倉幕府を見限ったかということである。

中央集権と地方分権との大きな違いは、前者が全ての政策や司法処理(裁判)などを中央が一手に引き受けなければならないことである。

 そして、問題なのは中央の意見だけで決まる政策ではなく、全国津々浦々にいる武士たちの問題を解決しなければならない司法(裁判)を一手に引き受けていることである。例えば鎌倉にいながら遠い九州の問題を解決したり、その対応に追われなければならなかった。全国の問題を鎌倉で処理している以上、その数は膨大になり処理する速度も遅延していったものと考えられる。

 この点、地方分権であれば、九州の問題は九州、関東の問題は関東と処理する案件が分散することになり、比較的スムーズに問題の解決が行われていたであろうことは容易に察せられることである。事実、永仁の徳政令には「再審の禁止」が盛り込まれており、幕府が増大する訴訟案件に苦慮していたことが伺えるのである。

 しかしながら、再審の禁止というのは、訴訟を少なくし迅速化することには役立つが、武士同士の争いを解決する術にはなり得ないということは明らかである。また、細川も鎌倉幕府の末期を指して「御家人の一族間の所領争いにより幕府に持ち込まれる訴訟は増加傾向にあったうえに、王朝の統治能力低下により本来幕府の管轄外にあった西国の寺社本所(荘園領主)間訴訟まで幕府が対応せざるを得なくなり、訴訟案件が増大したこと」(細川重男2011p137)と指摘しており、幕府の訴訟案件が武士のみならず寺社や公家にまで及んでいたことが分かるのである。

 しかしながら、幕府も寺社訴訟の専門機関を開設したり、引付衆(幕府の訴訟対応機関)を八人に増加したりと、対策に応じていたが、それでも処理能力は追いつかずパンクしていたのである。それでもなお鎌倉幕府が中央集権的な性格を捨てなかったことに対して、細川は「特権的支配層」が幕府の要職をしめており、地方への権限の委任はすなわち「特権的支配層」自らの権力を分散させることに繋がり、それを嫌がったためであると結論づけているのである。

 その「特権的支配層」について細川は、次のように記している。「特権的支配層は全御家人の2.5%から3%に過ぎない(中略)鎌倉初期以来の権力闘争の勝利者である特権的支配層は、嘉元の乱によって、ついに得宗にも勝利し、鎌倉幕府の支配者となった。(中略)このような特権的支配層にとっては、一般御家人は支持基盤ではなく、被支配者であり、収奪の対象であった。よって特権的支配層は御家人の利益を保護する必要はない。彼らは自身の権益を維持・拡大するための政治をすればよいのである」(細川重男2011p146)細川によると、鎌倉幕府の末期には将軍でも執権でもない少数の「特権的支配層」が「御家人の利益ではなく」自身の利益を守るために彼らを「搾取」していたのだ。さながら官僚が国益ではなく省益で動くように、もはや御家人のための政治をすることを放棄していたのである。

 それは「所領問題を解決してほしい」という武士の願いを「中央集権的なあり方を」目指すために蔑にしていたといってもよく、それこそが武士の不満であり、その願いを叶えることが武士のニーズ、「労働条件」であったのではないかと考えるのである。

 

 次に後醍醐天皇建武の親政について考えてみる。鎌倉幕府を否定した武士は後醍醐天皇の呼びかけに応じ、鎌倉幕府を滅ぼした。しかし、それからたった三年で建武の親政は瓦解したのである。このことから建武の新生も中央集権を志、また、武家を蔑にして、鎌倉幕府の特権的支配層の如くに公家優先の政治を行ったのだろうかと考えられるが、結論からすれば全ては逆である。つまり、建武の新政は、地方分権を志、武家を大事にした政権であったと言える。

 具体的に言えば奥州に陸奥将軍府を設立し、関東には鎌倉を本拠地とし足利直義鎌倉将軍府を開かせた。亀田俊和は足利尊氏に九州地方の支配を委任していた形跡があることから、将来的には尊氏に「鎮西将軍府」を任せる構想があったのではないかと指摘している。また、亀田は『神皇正統記』に後醍醐天皇が積極的に陸奥将軍府の発足を命じていることからも後醍醐天皇が一貫して地方分権を目指していたことが分かるとしている。

それでは、建武の親政は武家を軽視し公家を重視する政策を取ったために武士の信任を得られず瓦解したのであろうか。これは従来言われてきたことで、私も義務教育下の歴史の授業でこのように説明された記憶がある。しかしながら、武士の奉公が御恩との交換であったと前述したように武士である新田義貞楠木正成建武の親政を通して後醍醐天皇に終生仕えていたことからみても、不当に武士に冷たい政権であったとは言い難いのではないかと考えるのである。何故なら「武士の奉公は恩との交換」の原則に立てば恩を満たさない後醍醐天皇を見限っていたはずであるからだ。

 また、彼らも南朝の忠臣ではなく功利的な関係で後醍醐天皇に鞍替えしたことは前述の通りで、ある。で、あるならば建武の親政というのは「武士に有利な政権」であったのではないかと考えられのである。

南朝を代表する臣に北畠顕家という人がいる。先ほどの『神皇正統記』を著した北畠親房の長男である。その北畠顕家が出征する直前に後醍醐天皇に送った上奏文に『顕家諫奏文』というのがある。これは建武の親政の失態を強く批判したものであり、その内容は七か条からなるが、三条には「功績があっても身分の低い者には土地だけを与えるべきで、官職を与えるべきではない」とあり、裏を返せば後醍醐天皇が身分の低い者(武士)に官職を上げ優遇していたことが伺えるのである。亀田も「(前略)政策に対する不満を表明した者は、実は皇族や公家に圧倒的に多くみられるのである。先入観を排して現実をみると、足利尊氏・直義兄弟を筆頭に、楠木正成新田義貞など建武政権で高位高官に与った者は、実は武士が非常に目立つ。(後略)」(亀田俊和2014p172,173)と、建武の政権が武士を優遇した政権だったということを指摘しているのである。

 

 以上のように建武の新政というのは、武士を優遇し地方分権を目指した政権運営であったと言える。しかし、それならばなぜ武士は後醍醐天皇を見限り足利尊氏を奉じ室町幕府を起こしたのだろうか。

これに関して亀田は「恩賞充行の遅効性」が最大の原因であったと述べている。

「日本全国に分布する膨大な味方の武士の軍忠を正確に認定・評価し、敵である北条氏およびその与党の所領を調査・確定する作業は、予想以上にはるかに困難だったと思われる。その時点で迅速な恩賞の拝領を希望する武士が不満をもったことであろう。」(亀田俊和2014p173)「恩賞の拝領を希望する武士が不満をもった」

 という一文からは、新恩給与という御恩を満たすことができなかったことに不満をもったと思いがちであるが、ここではおそらく、土地のトラブルの解消という意味合いの方が正しいと思うのである。何故なら恩賞の宛がいを担当するのは「雑訴決断所」と呼ばれる機関で、訴訟機関のことである。恩賞を宛がう時には、ここから強制執行を命じたのである。例えばここは誰々の土地であるから立ち退きなさいとか、ここはあなたの土地ですよとか、土地の相論や所領の安堵を行っていたところである。しかしながら、二条河原の落書に「器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所」と揶揄されているように能力が関係なく人材が登用されていたようで、鎌倉幕府でもみたように訴訟機関として武士のニーズに応えるようなものではなかったことが伺えるのである。

 また、同じく二条河原の落書に「本領ハナルル訴訟人」とあり、訴訟をするためには自身の土地を離れ直接京都まで訴えなければならなかった。このように訴訟をするだけでもかなりの負担があったことが確認できるのである。

 以上のように建武の親政というのは、武士を優遇し、地方分権を目指したが、武士が求めているニーズとして迅速な訴訟の対応が充足していなかったため、武士の不満を招き室町幕府を招く結果になったと考えられるのである。

 それでは、室町幕府はそのニーズを満たしていたのかというと、亀田は「師直は建武政権よりも施行状発給手続きの簡易化を促進し、迅速に恩賞が実現するように工夫したのである。また師直以降の執事たちは、(中略)政治・社会情勢の変化に応じて、施行システムのリニューアルが絶えず続けられた事実も付言しておきたい」(亀田俊和2014p201)と述べ、室町幕府においては迅速な恩賞手続きが取られていたこと、また、それが時代に応じて臨機応変に変化していたことを明らかにしたのである。しかし、リニューアルが続けられていたということは未だ恩賞問題や土地の相論などでは膨大な訴訟が相次いでおりその解決を武士たちは目指していたと考えられるのである。