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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】③労働契約としての御恩と奉公

歴史

 武士を語る際に外せないのが「御恩と奉公」という考え方である。鎌倉時代の承久の乱の折に尼将軍こと北条政子が並み居る御家人たちの前で亡き頼朝公の恩を説き御家人たちを奮い立たせこれに勝利を収めたのは有名な話である。このことから武士というのは義理人情に厚く上に対して忠誠を尽くす存在であったということをイメージするのはそんなに難しいことではない。事実多くの人々が「御恩と奉公」から鎌倉武士団の強固な信頼関係に結ばれた堅固な絆で結ばれた忠孝のあるべき姿とイメージされることであろう。

 しかしながら、それは武士の行動規範に江戸時代以後の「忠・信・義」という価値道徳を見出しているからであって、事実はそれよりも功利的な関係にあるのではないかと考える。また、鎌倉御家人が「忠・義・信」による御恩と奉公の関係によって幕府と結ばれていたとするならば、後に元弘の乱鎌倉幕府自体が鎌倉御家人の手により滅亡に追いやられたことの説明がつかないのではないか。そこで本項では、御恩と奉公がどのようなものであったか、それによってこの時代の武士がどのような価値判断で幕府に仕えていたかを述べることにする。

 

 御恩と奉公という場合、一般的にその御恩とは本領安堵新恩給与の二つのことを指す。本領安堵とは、武士がそれまで持っていた土地の権利を認めて保障をすること、新恩給与とは新しい土地を褒美として貰うことである。そして、奉公とはその見返りとして戦争があれば従軍し、土地からでた税金などを納めることである。

 しかしながら、御恩という言葉と命をかけて戦争に従軍する武士の仕事ぶりから、その関係は強権的な上下関係で一方的に奉公を強要する片務的な関係であったと誤解されがちであるが、その関係は極めて双務的なものだったのである。

 家永三郎は、桃源瑞仙の史記妙に「今日本に罪科の者を免して私領を給分に充て奉公させる様にぞ」と、書いてあるのをみて、「恩給の代償なしの奉公は、尋常の奉公ではなく刑罰の一種であったのを見ても、奉公が恩顧の反対給付としてのみ提供されるものであったことを確認するに足りるのである。」(家永三郎2007,p90)と、御恩の交換として奉公が存在していたことを説明した。また、北条五代記にも「此所領なかりせば、君をもたつとぶべからず戦場にて命をも捨べからず」という記述があることから、「武士の奉公は常に恩との交換という条件つきの忠義であったこと」(家永三郎2007,p92)としている。このように忠義というのは、恩があってこそのもので、主人が恩を欠くならば武士の方もまた奉公をする義務がないと考えていたことは明らかである。江戸期以前の武士には無償の忠義と言うものは考えられなかったのである。

 それならば、後世に忠臣と称えられ戦時中には南朝後醍醐天皇に忠節を誓ったことから臣民の模範とされ大楠公と称えられた楠木正成を代表する南朝の家臣たちはどうだろうか。

 亀田俊和は従来、忠臣ぞろいの南朝と考えられてきた南朝が実は内紛が多かったことを論じ、「普通の人間たちが、普通に欲得づくで行動する普通の姿しかない」(亀田俊和2014,p9)として南朝は忠臣だらけだったというイメージを否定している。また、家永も元弘三年の官軍軍法に「武士以下合戦の忠を致すのに輩に於いては、本所帯等安堵の外、各新たに不決の恩賞あるべし」(家永三郎2007,p99)という内容から、「勤皇の武士は畢竟そのような恩賞欲しさに天皇方についたものに外ならない」(家永三郎2007p99)とのべた。

 

 このようにみると、戦前を通して忠臣と祭り上げられていた南朝の家臣たちも結局は恩賞欲しさに従っていたに過ぎず、その姿勢は極めて功利的なものだったことがわかる。例えば[i]新田義貞鎌倉幕府からの多額の課税を拒否し使者を切り殺し半ば逆切れ的に倒幕に踏み切ったこと、楠木正成得宗との勢力争いから、後醍醐天皇に近づいたこと、そして、足利尊氏鎌倉幕府内でも高い家格を有しながらも、細川重男のいう[ii]特権的支配層に属しておらず、そのことから不遇を被っていたことからも、後醍醐天皇への忠節というよりも鎌倉幕府への不満から鞍替えしたと考えられるのである。このようにまさしく「武士の奉公は恩との交換」だったのであり、主がこの恩を果たせなくなったときに武士はその奉公を停止させるどころが、新たな主を探して公然的に旧主に歯向かっていたのである。

 

 以上のように御恩と奉公の主従の関係というのは現代の労使関係と殆ど変わらないもので、あったと考えられる。すなわち、恩=金銭が払われなければ労働者はその奉公=労働を行うことを止めそのような状態が続くならば、新たな雇い先を探し転職をするか、ストライキを起こし社内の改善を行う、それでも駄目ならば社長を交代させる様は、以上のようにみてきた武士と遜色のないものであると考えられるのである。

 そうしてみるならば、御恩と奉公という関係性が、労働契約であり、御恩がなければ奉公をやめるという比較的ドライなものであったということがわかる。武士は御恩という債務が履行されなければ反乱さえ辞さなかったのである。そのためこの御恩と奉公の結ぶつきをもつ関係をこの時代の「武士の労働者」として定義するのである。

 

[i] 海津一郎はその前に手に入れていた後醍醐天皇の綸旨を手にいれていたことから、その時点で倒幕の名目はできていたが、これを得て即、義貞が倒幕の旗頭になったことを意味するものではないとし、義貞が挙兵に踏み切ったのは偶発の要素が働いていたとした(海津一郎 楠木正成と悪党1999年)

[ii] 鎌倉幕府において、中央要職を独占していた層