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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】①はじめに、なぜ過労死が起こるのか

歴史

過労死問題を扱う時に一番の疑問として挙げられるのが、「なぜ死ぬまで働くのか」ということである。

ここをまず解題せずして過労死問題を扱うことは難しい。

例えば古代の奴隷のように枷をはめられ強制的に働かされているわけでもない。働くことを監視され強要されているわけでもない(このこのとは教師や政治家、自営業でも過労死が起こることからも考えられることだと思う)

そのために過労死問題が起きるたびに「死ぬぐらいなら辞めればいいのに」と批判されることも少なくない。何故なら辞めようと思えば辞めれるからだ。極端に言えば出社しなければいいだけの話だ。

それに対して私は、日本的な武士道の忠義の概念がそのような行為を生み出したのではないかと仮説を立ててみた。主君に対して献身的に奉公する武士の行いが、現代の労働環境にも生き続け労働者を苦しめているのではないかと。しかしながら大野正和は著書『過労死過労自殺の心理と職場』の中で、過労死過労自殺を行う人たちの性格に「メランコリー親和型」という特徴があると主張した。これは簡単にいうと、真面目で責任感が強く人を思いやる性格なのだという。これだけ見ると良き日本人、良き労働者としての典型なのであるが、それだけではないようである。

 大野はこのように説明する。「過労死過労自殺の事例を検討すると、このメランコリー親和型の人の(中略)確かに自分の周囲の人たちとの関係が「尽くす」ということをとおして営まれている。だがそれは、母親が子供に対するように、あるいは、家臣が主君に対するように尽くすのとは違うようにみえる」(大野正和2003p60)

 また、「過労死過労自殺の事例をみていると、もう少し大きな個人を離れた要素がうかがわれる。だが、よくいわれる“会社への忠誠心”ともどこか違っている。」(大野正和2003p108)としている。

 被災者が過労に追いやられてしまうのは、忠義の概念とはまた違うようである。では、どのように違うのだろうか?

「周囲から信頼されているという負債=債務=借りを必死になって返済しようとして懸命に働いている。それは、「恩返し」としての仕事と言えるだろう。だが、どんなにがんばって働いても返しきれない負債を背負っていることが、過労死過労自殺者をつねに「負い目に」立たせる。(中略)「恩」には準超越的な要素がある。仕事によるなんらかの返済は義理のような世俗的なものではなく、「恩返し」というように準超越的要素をもつ全体的なものへの返済に通じる。」(過大野正和2003p110)

 つまり、メランコリー親和型の人は他者の信頼に応えようとする。その行いは信頼してくれたという恩に関する報恩の行為なのだという。そしてその、恩は「準超越的な要素」があるために返しても返しきれないのだ。そのために被災者は「負い目」を感じ働き続けているのだという。また、その被災者は、その性格、故に他人から仕事を振られれば断れない。そのため労働量の偏りが生じ、やがて過労死にいたるのだという。

 しかしながら、過労死の問題がこのように個人に起因するものであれば特定の人にだけ労働量が偏る社会構造や、36協定などの法律の不備を整理したところで、根本的な解決には至らないのではないのではないかと私は考える。極端な話「働きすぎれば死刑にする」という法律を作ったところで、前述のような人々はそれを守るだろうか。

 大野も「私は、「過労死をしない方法は」と聞かれた時には、「義理を欠くこと」を勧めることにしている。」(大野正和2003p180)

 とし、そもそも人間関係を気にしないことを防衛の一つとして挙げている。

 また、川村遼平は「労働者を過労へと駆り立てる圧力には、“働きすぎを”を前提にした、そして“働きすぎ”が評価されるような労働者同士の競争があった。こうした圧力を弱める鍵は、“働きすぎ”なくても生きていける社会をどう目指すか(後略)」(川村遼平2014p175)

 とのべ社会を変えていくために「だからこそ、問題は深刻なのだ。「ブラック企業の」非人道的な要求に応えてしまう労働者が、犠牲者であるとともに、ある意味では「共犯者」なのだから」(川村遼平2014p9)

 と、労働者の意識の変革が大事だとした。

 以上のように私は過労死問題を考える際に社会の変化よりも、人の変化を重視すべきであると考えた。しかしながら、管見の範囲では、その「変化すべき人」について述べられたことは、少なかった(あるいはなかった)かのように思う。

大野も「(前略)“仕事中心社会”を克服した「無邪気な個人主義」ではない“自分中心社会”をめざすべきだろう。」(大野正和2003p194)と、抽象的なことを述べている。私たちが過労死を防止する社会を形作っていくにあたって、どのような人間に変化するべきであろうか。

 そこで私は日本の文化、歴史とも言える武士に着目したのである。従来、武士というのは、階級的な意味合いとして捉えられてきて、私たち一般の人とは違う存在として認識されていた。しかしながら、彼らも戦闘を生業とする労働者である。また、その労働環境は現代の私たちよりも過酷であったと言える。そんな彼らの労働者意識にこそ多くを学べるのではないかと考え武士、とりわけ戦国時代の武士について本論では考察することにするのである。つまり、武士というのは支配階級のイメージが強いが、戦闘を業とする職業に従事する労働者であると考えるのである。

 

端的に言えば武士を階級として考えるのではなく労働者として考えることで以下の論を進めていくことにする。(続く)