ツィツターは穴の空いたバケツである
さて、このブログにおいては実に一年ぶりの更新であるが、
この度、指を動かしわざわざパソコンをカタカタさせてブログを更新しているのには理由がある。
実に役四年間に渡るツィッターのアカウントを消したからだ。
と、いっても多くの方には何のことかわからないであろうし、このようなことを疑問に思うに違いない。
「何でツィッターのアカウントを消すことがブログを更新することになるのか?」と、
何も今回ツィツターを消したことをネタに書くからというわけでもないのなら、ツィッターをしながらでもブログは更新できるのではないかというのは多くの方が思うことは当然の帰結である。
さて、ここでタイトルにもあるとおりであるが、私は四年間ツィツターをしてみて感じたことがある。
「ツィツターは穴の空いたバケツである」
と、言っても何のことか分からないと思うので説明する。
さて、皆さんはツィツターには何を書き込まれているであろうか?
人によっては単にコミュニケーションのツールでありこれといったことをつぶやいているわけではないと答える人もいるだろう。
別の人に聞けば趣味のことを話したり、時事やニュースのことを議論し合ったり
自分の思想をたれながし、他者に共感されたいがためという人もいよう。
特異な例でいえば、自身の政治的な工作の場だよという人もいるだろう。
私はといえばときたま趣味のことを語り仲間を茶化しし政治や出来事に対し文句をつけていたりしていた。
しかし、私はそういったことをしている内に「つぶやく」ことで満足していくようになった。
下手な駄文をツィッターに垂れ流し結果何が残ったか?
何も残らない
ツィツターに書いたものは底の抜けたバケツのように抜けていき、私の駄文といえどその時その時で一生懸命考えた’名文’はどこにも残っていないのである。
私は書いたことに満足し何を書いたかは忘却の彼方へと消しさってしまったのだ。
とてもむなしい
私はつぶやくことに満足しそこで終わってしまっていた。
だから、私は考えた。そのツィツターに投稿したエネルギーをもう少し別のところに注ぎ形として残すべきではなかったか
140文字を何回にも分けて書くエネルギーを別の形で生かすべきだと
書きたいこと言いたいことがあるならそれを穴の空いたバケツに注ぐのではなく風呂桶でも注いだほうが幾分かましなのではないかと。
だから、これからはツィツターではなくブログで主張することにしたのである。
これでも自分の言いたいことの半分は主張できていないと思うから、わけがわからないという人もいるだろうが
そこは人間の感情というところなので勘弁してほしい
とにかく、私はツィツターに注ぐはずのエネルギーで千文字を書ききった。
快挙である
めでたいめでたい