価値観の違い
経筒
貨幣を導入するというのは昨日の記事で書いたとおりとても難しいことです。
何しろ困り果てた朝廷が神に祈るぐらいでしたから、当時の人間というのは経済の仕組みというのがあまりよくわかっていなかったんでしょうね。
じゃ、どうして宋銭は日本で普及することになったのか?
宋銭が日本で普及することになったのは12世紀後半ということです。馴染み深い者をいえば平清盛率いる平家が繁栄を謳歌していた時代です。
よく言われるのが平清盛が日宋貿易により宋銭を輸入したことで、日本の貨幣経済の時代が始まったということです。
ちょっとまて
昨日の記事に書いたとおり日本独自の貨幣である皇朝十二銭はこの時代には廃れて久しく実に200年の月日がたってのに
平家が宋銭を輸入したからといって、
「貨幣マジ便利~」
と、皆がいきなり使い始めたと言うのはかなり飛躍しすぎではないだろうか?
古代貨幣が廃れて200年もたっていたのに当時の人々は貨幣を貨幣と認識することができたのであろうか?
そもそも貨幣として宋銭を使おうとしたのであろうか?
昔の人々は貨幣を潰して銅にしていたという昨日の記事を思い出して欲しい
つまり、当初「宋銭」は貨幣ではなく銅材というモノとして輸入されていたのではないか?
じゃ、何でそんな大量の銅をこの時代の人々は欲したのか?
この時代には経筒を作りそれを埋めると言う行為が流行していました。
経筒とはお経を書いた巻物を入れる銅製の筒のことです。
さて、経筒ですが実は「1150年頃から素材が国産の銅から中国の銅に置き換わっているという」研究結果があります。
何故、突然に国産から中国産に切り替わっていったのか。
当時の日本の様子を見てみると銅の生産技術が未熟だったこともあり、全国的に銅が不足していました。
そこで日宋貿易により銅を輸入していたというのであれば話は簡単なのですが、この頃には銅を輸入していたなんて記録は残っておりません。
なのに何故日本で中国産の銅が使われるているのか?
答えは宋銭に他なりません。
当時の人々は宋銭を仏具などの原材料として宋銭を輸入したのではないかと考えられます。
じゃ、何故「銅」ではなくわざわざ宋銭を輸入していたのか?
これは簡単な話で、宋でも銅不足が深刻な問題になっていたので、銅を輸出することを禁じていました。もちろん宋銭も禁輸項目でしたが、海外貿易の拠点などでは決済のためにどうしても宋銭を使うしかありません。そこで集められた宋銭を日本に持ち込むというのはそれほど難しい話ではないでしょう。
当時は仏教で言うところの「末法の時代」というものでした。末法の時代というのは国はメチャクチャになるが56億7千万年後に弥勒菩薩が救済してくれるよというある種の終末思想です。
そしてこの時代の人々はこれを信じていました。
56億7千万年後に自分は敬虔な仏教徒であることを証明するために腐らずに丈夫で長持ちする銅製の経筒を求めたのです。
さて、ここまでをまとめると
当時は末法の時代で皆銅製の経筒を持てめていた→そのため原材料として宋銭を集めた。
これで宋銭が日本で普及した理由は説明がつくと思うのですが、
肝心の銅の材料としか思われてない宋銭がどのようにして貨幣として認識されることになったのか?
が説明できないですね。
ですが、この人々が「宋銭を銅の材料とみなしていた」こと自体が鍵なのです。
この状態で
「今までは絹や米で取引してたけど、これからは宋銭で取引する」と言われたら多くの人はこう考えるはずです。
通貨として使えなくても仏具にすれば売れる
これが普通の時であれば、こうはならなかったはずです。
しかし、時代は末法の時代。誰もが救いを求めて宋銭(銅)を欲しがっていた時代です。
つまり
宋銭は誰にとっても価値がある
これこそまさに当時の人々が宋銭を信任した瞬間でした。
そして、次第に貨幣としての利便性が認知されるようになり
最終的に宋銭を貨幣と考える考え方が構成されていったものと考えられます。
誰にとっても価値がない皇朝十二銭と誰にとっても価値がある宋銭
この認識の違いが二つの貨幣に差を生んだ要因でした。
と、ネットの海をさまよっているとこのような記事をみつけたので紹介しときます。
asahi.com(朝日新聞社):鎌倉の大仏様「素材は中国銭」 別府大グループが解明 - 文化トピックス - 文化