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もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑦戦国武士の労働者像・分国法から見る上下の意識

 前回紹介した菅野覚明氏の武士の定義で言えば、こと戦国時代の武士こそが一番、武士らしい武士であると言える。戦国時代とは、駿河戦国大名今川義元の定めた[i]「今川仮名目録追加」第20条に「(中略)只今はおしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申し

付け、静謐する事なれば」(p773)と、あるように「自分の力量」で渡り歩く時代であった。

 自分の力量というのは、それ以前の鎌倉・室町時代では、知行を貰うとき規模は明示されずその土地の「職」に任命されてその職務の権益から生じる税を貰う「所職知行」であったものに対し、戦国時代になると、土地そのものを知行としてもらい受けるようになるのである。これを「一円知行」と言い、前者が土地を支配するのではなくあくまで権益を保持しているに過ぎず、その土地から得られる収入の大部分は自分を職に任命した上司に納めていたのに対し、後者は大名に納める必要はなく、自分自身で全てを得ることができたのである。

 それは、まさしく武力を用いて所領を拡大し、妻子を養う本来の武士の姿であったと言える。そして、その武士が一番武士らしかった時代の武士の考え方は、本来の「武士道」であると言えるのではないだろうか。また、その「武士道」を「労働者意識」として捉え直すことが本論全体を通しての趣旨である。

 戦国期、自分の力量をもって、渡り歩いた武士の考えは、江戸期の武士道ましてや新渡戸稲造の創造した武士道とは全く別の極めて現実的なリアルズム溢れる武士道ではなかったのではないかと考えるのである。そして、本章では、具体的に戦国時代の武士がどのような考え方の元に主に奉公し、主はどのような思いで御恩を与えていたのか武士と大名の上下の関係を述べ、それに合わせて戦国武士の労働者意識とはどのようなものであったのかを、考察することにするのである。

 

 

1分国法からみる上下の意識

 戦国期の大名といえば、大河ドラマや講談などにみられるように才覚に溢れた大名がその力強いリーダーシップで皆をまとめあげトップの思うがままに命令を下し、逆らうものには容赦ない罰を与えるという悪く言えば独裁者、よく言えばカリスマのような存在であっと考えられている。しかしながら、武将と大名の関係が主従の関係ではなく、労使の関係であったと前回述べた以上にその関係が上下の絶対的な関係であったことはあり得ないと考える。

例えばオルガンチーノという宣教師が友人に送った[ii]手紙のなかに「日本人はムチで人を罰することはしない、もし、家来が主人の異にそぐわない行動をしたときに、主人は前もって家来に怒りや憎しみを表すことなく殺してしまう。何故なら、嫌疑をかけられると家来は主人を殺してしまうからだ。」(著ヴァリニャーノ/訳松田武一他1973p295)と言う報告がなされているように、この時代の武士の上下関係は絶対的なモノであるとは言えなかったのである。

 戦国大名が家臣や領地を統治するために用いた政策として「分国法」が挙げられる。しかしながら、戦国大名というのがイメージされるような専制君主的な存在であったならばそもそも法というのは存在しないはずである。何かことが起きれば君主が独裁的に解決すればいい話だからだ。また、法が家臣を統治する性格を持つのなら、以上に述べてきたように独立心の強い武士たちがどうしてその法を受け入れるのかというのも不可解な話である。そこで、本節では、分国法から家臣と大名との関係を考察することにする。      

以下の表は戦国時代における主な分国法の種類である。

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戦国時代には表に乗っているこれらの大名よりもはるかに多くの大名が存在(毛利氏や上杉氏、島津氏など)していたことから、むしろこのように分国法を制定し、法を備えた大名は例外的な存在であったと言える。分国法を制定した大名が進んでいたあるいは遅れていたという議論よりも、ここで問題にしたいのは分国法を成立するにあたっての過程とその動機である。

 まず、相良氏法度は九州の国人である相良氏が三代に渡ってその都度追加していき制定していったものである。その施行手続きから、勝俣鎮夫氏は相良氏法度が「上から一方的に押し付けるといった性格を有するものでは決してなく、(中略)老者と衆議の合意にもとづき作成される―真の立法主体は老者・衆議である」(勝俣鎮夫1979p125)とし、相良氏の分国法がその実態としては大名相良氏にあるのではなく、その重臣である老者、衆議の意向によって立法される性格のものであるとした。下記の図は勝俣が用いた図を模したものである。

下記の図に寄れば法の施行手続きは、老者または衆議から案がだされ、それぞれ相互の意向を取り入れ(例えば老者が起案したならば衆議の諮問を受ける必要がある)大名である相良氏の承認を経た上で衆議の承認を持って始めて公布されるものである。このように相良氏においては、家臣の意見がかなり取り入れられる構造になっており、分国法を制定することが家臣にとって有利なものであったことが伺えるのである。

 また、六角氏の六角氏式目も法の遵守を誓う起請文が大名である六角氏と家臣との間で取り交わされたこと、その上に内容も六角氏がしなければならない、してはならないなど六角氏の行動を規定したものが目立つのである。このことからも法によって主人の力を抑えようとしたことがみてとれるのである。

 

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次に武田氏甲州法度之次第の第五十五条には「[i]晴信が定めや法度以下に対して違反しているようなことがあれば、貴賎を問わず投書をもって申し出ること。時と場合によって、その覚悟をする。」(クロニック戦国全史1995p737)と、あるように大名側の大幅な譲歩が見えるのである。このことからも、戦国大名に仕える家臣と言うのは、ある程度大名に対等に近かった存在であったのではないかと考えられるのである。

 しかしながら、分国法がその国の法律である以上は、その主題は家臣のいざこざや領民の紛争などの諸問題を解決するべきモノである。結城氏新法度には前文に

[ii](前略)当家の重臣は、私の採決について不満な時は、道理にあうのあわないのと陰でさやいている。あるいは自分の身にかかわることでは、親類縁者の訴訟となると白を黒といいくるめる。(中略)実際には死ぬきもないのに目をむいて、刀をぬく様子をみせて、無理を通そうとする。(中略)このような状態なので、私個人として、法律を決めた。(後略)」(クロニック1995戦国全史p738)

 と、あるように結城氏が分国法を定めた理由は、結城氏の採決に納得できない家臣や、親類縁者の裁判になると不平等が起き、強引に自身に有利な採決を勝ち取ろうとする者が後を絶たなかったために法律を定めたとしている。つまり、その狙いは公正で公平な裁判を行うためであったと言える。同様に今仮名目録の末尾には

[iii](前略)最近、人々が小賢しくなり、思いもかけないことで相論が持ち上がったりするので、その条目を記して、相論に対応しようとするものである。そうすれば、贔屓のそしりもないであろう。(後略)」(クロニック戦国全史1995p731)

 と、訴訟が増加しその裁判を行う際に「贔屓」をしたと言われないために法律を定めたと結城氏と同様の趣旨のことをのべているのである。

 小和田哲夫は戦国家法の狙いとして「全体的な傾向としては、やはり、戦国大名の絶対的権威の象徴として戦国家法が成立しており、(後略)」(小和田哲男1978p164)としているが、菅原正子が「戦国大名は、領国内で発生した問題・紛争に対する裁判の判決の基準にするために、その大名の思想・政策や領国特有の事情に適合した分国法を制定したものであり。権力的な支配を行うためではない。」(菅原正子2013年p18)と、述べているようにやはりその一番の趣旨としては、公平な裁判を行うことであったと考えるのが妥当であると考えるのである。そしてその公平な裁判は一章でみてきたように訴訟の処理、訴る権利のニーズを満たした(満たす)ものであったと考えるのである。

 

 家臣の側からみれば分国法の制定は君主の「独断専行」を防ぎ、公正な裁判により自身の権益を守るという役割があったのである。また、その関係は上下の絶対的な意識があったのではなく、極めて対等に近い関係であったと考えられるのである。

 

[i] 基本的な現代語訳は「クロニック戦国全史」を参照した

[ii] 同上

[iii] 同上

[i] クロニック戦国全史

[ii] ベナルディーノ・フェラーロ宛書簡

連載【戦国時代型労働思想】⑥武士の労働条件とここまでのまとめ

 以上のようにみるならば武士というのはその自分たちの組合長に本領安堵新恩給与の二つ以外に、訴訟の処理能力を求めていたことは明らかである。

 そして、その能力を求めて新たな主を探していたとするのならその能力というのが奉公に見合った御恩の一つではなかったのではないかと考えるのである。

 武士が求める御恩、労働条件というのは、本領安堵新恩給与、恩領訴訟とでもいうべき訴える権利を満たすことにある。つまり、守られること、与えられること、訴えを起こすことができるの三恩給付が武士の労働条件であったと考えるのである。また、そのように考えるならば三((恩給与を満たすことで初めて「労働契約」が結ばれたと考え、その関係にあるものを「武士の労働者」として定義づけられるのではと考えるのである。

 

ここまでを振り返ってみてのまとめ

 

①本来の武士とは、戦働きをする武士のことなのでこと戦国時代の武士を本来の武士のモデルとして考える。

②武士を階級として考えるのでなく武士業務に従事する労働者として考えることで、現代の労働者を通して考える。

③武士が労働者であればそこに労働契約があったはずでその労働契約は「御恩と奉公」である

④幕府とは武士の労働組合であり、自分らの組合長に求めたのは新恩給与本領安堵のほかに「迅速な裁判」がある

 

以上で第一章が終了です。

次回からは第二章に移ります。

連載【戦国時代型労働思想】⑤武士のニーズ

 それでは具体的にどのような点が「自分たちの利益になり得ない」と考えるきっかけになり、何を「新しい組合長」に求めたのだろうか、端的に言えば武士が奉公をするにあたっての「労働条件」とは何であったのだろうか。単に御恩として本領安堵新恩給与の二つが満たされるだけで満足していたのであろうか。しかし、それならば永仁の徳政令のような御家人を大事にし、御家人贔屓の政策をとった鎌倉幕府はどうして滅亡してしまったのだろうか。それには何かしらの不満が溜まり鎌倉幕府を否定する(否定しなければならない)情勢があったはずである。そこで、鎌倉幕府滅亡から建武の新政を経ての室町幕府成立までの武士の動向を追う形で武士のニーズとは何だったのかを述べることにする。

 

まずは鎌倉幕府室町幕府の権力闘争からその性格の違いを明らかにしたいと考えるのである。以下の図はそれを表にしたものである。

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図2 鎌倉幕府室町幕府の内乱の違い

 一見して分かるとおりに鎌倉幕府においては、中央での主導権争いが多く、室町幕府においては、有力守護家に対する討伐又は反乱が頻発していることがわかる。

 裏を返せば室町幕府には幕府の討伐対象に入るほどの力を持った大名がいたのに対し、鎌倉幕府にはそのような大名はいないため、一昔前の自民党民主党のように内部での主導権争いが行われていたのである。このようにみると、中央集権的な鎌倉幕府と、地方分権的な室町幕府という性格の違いが明らかになるのである。

 従って、時代の流れを鑑みれば、武士は中央集権を否定し地方分権を目指したということになる。そこに武士のニーズ、労働条件が見えるのではないかと考えるのである。

それでは、何故、武士が地方分権を目指したか、換言すればどうして鎌倉幕府を見限ったかということである。

中央集権と地方分権との大きな違いは、前者が全ての政策や司法処理(裁判)などを中央が一手に引き受けなければならないことである。

 そして、問題なのは中央の意見だけで決まる政策ではなく、全国津々浦々にいる武士たちの問題を解決しなければならない司法(裁判)を一手に引き受けていることである。例えば鎌倉にいながら遠い九州の問題を解決したり、その対応に追われなければならなかった。全国の問題を鎌倉で処理している以上、その数は膨大になり処理する速度も遅延していったものと考えられる。

 この点、地方分権であれば、九州の問題は九州、関東の問題は関東と処理する案件が分散することになり、比較的スムーズに問題の解決が行われていたであろうことは容易に察せられることである。事実、永仁の徳政令には「再審の禁止」が盛り込まれており、幕府が増大する訴訟案件に苦慮していたことが伺えるのである。

 しかしながら、再審の禁止というのは、訴訟を少なくし迅速化することには役立つが、武士同士の争いを解決する術にはなり得ないということは明らかである。また、細川も鎌倉幕府の末期を指して「御家人の一族間の所領争いにより幕府に持ち込まれる訴訟は増加傾向にあったうえに、王朝の統治能力低下により本来幕府の管轄外にあった西国の寺社本所(荘園領主)間訴訟まで幕府が対応せざるを得なくなり、訴訟案件が増大したこと」(細川重男2011p137)と指摘しており、幕府の訴訟案件が武士のみならず寺社や公家にまで及んでいたことが分かるのである。

 しかしながら、幕府も寺社訴訟の専門機関を開設したり、引付衆(幕府の訴訟対応機関)を八人に増加したりと、対策に応じていたが、それでも処理能力は追いつかずパンクしていたのである。それでもなお鎌倉幕府が中央集権的な性格を捨てなかったことに対して、細川は「特権的支配層」が幕府の要職をしめており、地方への権限の委任はすなわち「特権的支配層」自らの権力を分散させることに繋がり、それを嫌がったためであると結論づけているのである。

 その「特権的支配層」について細川は、次のように記している。「特権的支配層は全御家人の2.5%から3%に過ぎない(中略)鎌倉初期以来の権力闘争の勝利者である特権的支配層は、嘉元の乱によって、ついに得宗にも勝利し、鎌倉幕府の支配者となった。(中略)このような特権的支配層にとっては、一般御家人は支持基盤ではなく、被支配者であり、収奪の対象であった。よって特権的支配層は御家人の利益を保護する必要はない。彼らは自身の権益を維持・拡大するための政治をすればよいのである」(細川重男2011p146)細川によると、鎌倉幕府の末期には将軍でも執権でもない少数の「特権的支配層」が「御家人の利益ではなく」自身の利益を守るために彼らを「搾取」していたのだ。さながら官僚が国益ではなく省益で動くように、もはや御家人のための政治をすることを放棄していたのである。

 それは「所領問題を解決してほしい」という武士の願いを「中央集権的なあり方を」目指すために蔑にしていたといってもよく、それこそが武士の不満であり、その願いを叶えることが武士のニーズ、「労働条件」であったのではないかと考えるのである。

 

 次に後醍醐天皇建武の親政について考えてみる。鎌倉幕府を否定した武士は後醍醐天皇の呼びかけに応じ、鎌倉幕府を滅ぼした。しかし、それからたった三年で建武の親政は瓦解したのである。このことから建武の新生も中央集権を志、また、武家を蔑にして、鎌倉幕府の特権的支配層の如くに公家優先の政治を行ったのだろうかと考えられるが、結論からすれば全ては逆である。つまり、建武の新政は、地方分権を志、武家を大事にした政権であったと言える。

 具体的に言えば奥州に陸奥将軍府を設立し、関東には鎌倉を本拠地とし足利直義鎌倉将軍府を開かせた。亀田俊和は足利尊氏に九州地方の支配を委任していた形跡があることから、将来的には尊氏に「鎮西将軍府」を任せる構想があったのではないかと指摘している。また、亀田は『神皇正統記』に後醍醐天皇が積極的に陸奥将軍府の発足を命じていることからも後醍醐天皇が一貫して地方分権を目指していたことが分かるとしている。

それでは、建武の親政は武家を軽視し公家を重視する政策を取ったために武士の信任を得られず瓦解したのであろうか。これは従来言われてきたことで、私も義務教育下の歴史の授業でこのように説明された記憶がある。しかしながら、武士の奉公が御恩との交換であったと前述したように武士である新田義貞楠木正成建武の親政を通して後醍醐天皇に終生仕えていたことからみても、不当に武士に冷たい政権であったとは言い難いのではないかと考えるのである。何故なら「武士の奉公は恩との交換」の原則に立てば恩を満たさない後醍醐天皇を見限っていたはずであるからだ。

 また、彼らも南朝の忠臣ではなく功利的な関係で後醍醐天皇に鞍替えしたことは前述の通りで、ある。で、あるならば建武の親政というのは「武士に有利な政権」であったのではないかと考えられのである。

南朝を代表する臣に北畠顕家という人がいる。先ほどの『神皇正統記』を著した北畠親房の長男である。その北畠顕家が出征する直前に後醍醐天皇に送った上奏文に『顕家諫奏文』というのがある。これは建武の親政の失態を強く批判したものであり、その内容は七か条からなるが、三条には「功績があっても身分の低い者には土地だけを与えるべきで、官職を与えるべきではない」とあり、裏を返せば後醍醐天皇が身分の低い者(武士)に官職を上げ優遇していたことが伺えるのである。亀田も「(前略)政策に対する不満を表明した者は、実は皇族や公家に圧倒的に多くみられるのである。先入観を排して現実をみると、足利尊氏・直義兄弟を筆頭に、楠木正成新田義貞など建武政権で高位高官に与った者は、実は武士が非常に目立つ。(後略)」(亀田俊和2014p172,173)と、建武の政権が武士を優遇した政権だったということを指摘しているのである。

 

 以上のように建武の新政というのは、武士を優遇し地方分権を目指した政権運営であったと言える。しかし、それならばなぜ武士は後醍醐天皇を見限り足利尊氏を奉じ室町幕府を起こしたのだろうか。

これに関して亀田は「恩賞充行の遅効性」が最大の原因であったと述べている。

「日本全国に分布する膨大な味方の武士の軍忠を正確に認定・評価し、敵である北条氏およびその与党の所領を調査・確定する作業は、予想以上にはるかに困難だったと思われる。その時点で迅速な恩賞の拝領を希望する武士が不満をもったことであろう。」(亀田俊和2014p173)「恩賞の拝領を希望する武士が不満をもった」

 という一文からは、新恩給与という御恩を満たすことができなかったことに不満をもったと思いがちであるが、ここではおそらく、土地のトラブルの解消という意味合いの方が正しいと思うのである。何故なら恩賞の宛がいを担当するのは「雑訴決断所」と呼ばれる機関で、訴訟機関のことである。恩賞を宛がう時には、ここから強制執行を命じたのである。例えばここは誰々の土地であるから立ち退きなさいとか、ここはあなたの土地ですよとか、土地の相論や所領の安堵を行っていたところである。しかしながら、二条河原の落書に「器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所」と揶揄されているように能力が関係なく人材が登用されていたようで、鎌倉幕府でもみたように訴訟機関として武士のニーズに応えるようなものではなかったことが伺えるのである。

 また、同じく二条河原の落書に「本領ハナルル訴訟人」とあり、訴訟をするためには自身の土地を離れ直接京都まで訴えなければならなかった。このように訴訟をするだけでもかなりの負担があったことが確認できるのである。

 以上のように建武の親政というのは、武士を優遇し、地方分権を目指したが、武士が求めているニーズとして迅速な訴訟の対応が充足していなかったため、武士の不満を招き室町幕府を招く結果になったと考えられるのである。

 それでは、室町幕府はそのニーズを満たしていたのかというと、亀田は「師直は建武政権よりも施行状発給手続きの簡易化を促進し、迅速に恩賞が実現するように工夫したのである。また師直以降の執事たちは、(中略)政治・社会情勢の変化に応じて、施行システムのリニューアルが絶えず続けられた事実も付言しておきたい」(亀田俊和2014p201)と述べ、室町幕府においては迅速な恩賞手続きが取られていたこと、また、それが時代に応じて臨機応変に変化していたことを明らかにしたのである。しかし、リニューアルが続けられていたということは未だ恩賞問題や土地の相論などでは膨大な訴訟が相次いでおりその解決を武士たちは目指していたと考えられるのである。

 

連載【戦国時代型労働思想】④労働組合としての幕府

 幕府とはどのような組織であり、武士たちは幕府にどのような役割を求めていたか。幕府が武士に果たした役割と、武士が幕府に求めたものから武士とはどういった性格の存在であったのかを考えていきたい。

 

 幕府という存在の大きさ、日本の歴史に果たした役割から、幕府というのは、日本という国を統治していた統治機関であるとイメージしている人は少なからずいると思う。そのような人たちのイメージでは、将軍が総理大臣にあたり、幕府という機関が国会にあたるとおそらくイメージしているのではと考えるのであるが、これは誤解である。

 先ほど、武士の御恩として本領安堵新恩給与の二つがあることをあげた。この二つがどちらも「土地」に関連している通りに武士たちが最も大事にしていたのは自身の持つ土地であった。そして、その土地を(恒久的)に保障してくれる存在を求めていたのである。

 しかしながら、彼らが当初、仕えていた公家が武士の土地を保障してくれたかといえばそうではなかった。平安時代には武士が未だ土地を所有しておらず、その土地の所有者は中央にいる貴族や寺社であり、武士はその土地を管理する管理人にすぎなかったのである。

 つまり、武士自身が土地を所有すれば朝廷に対しての納税の義務を果たさなければならなかったが、その土地を有力者に寄進することで、脱税を計りその見返りとして自身の土地の管理支配を保護されていたのである。このような寄進型荘園のシステムの中では、実質的には武士が土地を支配していたといえども、名目上、書類上は寄進された有力者のモノであり、武士が土地を所有しているとはお世辞にも言えなかったのである。 

 特に後白河上皇平清盛の息子、重盛の死後にその土地を無断で没収したことは、その時代に土地の所有者が明確に武士になかったことを示すものであるといえる。

 また、『枕草子』には、いやしげなるものの代表に式部丞の笏(しゃく)を挙げているが、これは、式部丞は律令制では五位であり給料が低くボロボロの笏を使い回していることを揶揄したものなのである。しかし、それはなにも式部丞の貧困さだけを卑しんだものではなかった。

 平清盛以前は正四位上の位が武士の最高位であり、律令制での武官の地位たる衛門府督・兵衛府督が正五位上衛士府督が従四位下と低い物であったことから、三位以上を一流貴族の証しとする当時では、武門に携わるものは下級貴族として圧倒的に差別されていたのである。家永が「律令国家においては、人民の自由なる集会、政治に対する批判的態度は、その内容の如何を問わずそれだけで犯罪とされたのであって、そこに律令貴族の人民感がはっきりあらわれているのであった。(家永三郎2007p30)」と述べているように武士が自分の利益を訴えることなどもっての外であったし、また、三位以上しか議政官として政治に携わることができない制度上、律令国家に自身の代弁者を送り込む余地さえなかったのである。

 

 現代の人間からみると、圧倒的な武力を背景に半ば公家を支配している武家というイメージをもちがちだが、そういった状況は少し後の時代のことであり、武士が発生した当初は当然のことながら公家の方があらゆる面で武家より優越した存在であったのである。このような差別的な境遇や、上流貴族の意識の中から自身の待遇の改善を求めることもできず、武士たちはもっぱら新たな雇い主を公家ではなく自分たちと同じ武士に求めたのである。

 それが幕府という存在であった。武士の、武士による、武士のための機関が幕府であり、その役割は公家に虐げられてきた武士の権益や立場を保証する労働組合的な存在であったと言えるのではなかったかと考えるのである。細川が「鎌倉幕府は、[i]御家人の政権であり、御家人の権益を保護することが使命、そして権力基盤なのであった」(細川重男2011P33)と述べているようにその基盤を御家人(武士)に求める以上、幕府は国家を代表する内政機関になり得るはずもなかったし、第一に考える(考えなければならない)のは国や国民全体の利益ではなく、御家人(武士)の利益であったのだ。

 しかしながら、幕府の裁判において荘園領主の側が勝訴し御家人側が敗訴している例が多いことから本郷和人が「統治権者として成長しつつあった幕府は、「公平性」を高く掲げ、世の中の期待に応えようとしたのです(本郷和人2012p88,89)」と、のべているように、幕府としては御家人の枠を超えて統治しようという意志もあったことが伺えるが、幕府による全国統治を目指した安達泰盛[ii]霜月騒動で失脚し、細川が「御家人制はこれまでと同じく閉鎖的なものに止まり、鎌倉幕府は真の全国政権となる道をみずから放棄したのであった(細川重男2011p118)」とのべたように、その後に続く永仁の徳政令も明らかに全国の国民を無視し御家人に有利な内容であることから、幕府がまた御家人のための組織であろうとしたことが伺えるのである。

 

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図1 永仁の徳政令 出典 笠松宏至 『徳政令』1983

このように幕府が武士の労働組合に過ぎない以上、幕府に特別な忠誠を誓う必要もなく、幕府が自分たちの利益になり得ないと判断したのなら、直ちにこれを排除し自分たちに相応しい新たな組合長を据えることにするのである。

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[i] しかしながら、全ての武士が御家人ではなかった。特に西国御家人はこの時代「本所一円地住人」と呼ばれ、東国御家人とは明確に区別されていた。

[ii] 御家人の権益派の平頼綱と統治派の安達泰盛が衝突した政変、泰盛は殺され頼綱が実権を握るようになる

連載【戦国時代型労働思想】③労働契約としての御恩と奉公

 武士を語る際に外せないのが「御恩と奉公」という考え方である。鎌倉時代の承久の乱の折に尼将軍こと北条政子が並み居る御家人たちの前で亡き頼朝公の恩を説き御家人たちを奮い立たせこれに勝利を収めたのは有名な話である。このことから武士というのは義理人情に厚く上に対して忠誠を尽くす存在であったということをイメージするのはそんなに難しいことではない。事実多くの人々が「御恩と奉公」から鎌倉武士団の強固な信頼関係に結ばれた堅固な絆で結ばれた忠孝のあるべき姿とイメージされることであろう。

 しかしながら、それは武士の行動規範に江戸時代以後の「忠・信・義」という価値道徳を見出しているからであって、事実はそれよりも功利的な関係にあるのではないかと考える。また、鎌倉御家人が「忠・義・信」による御恩と奉公の関係によって幕府と結ばれていたとするならば、後に元弘の乱鎌倉幕府自体が鎌倉御家人の手により滅亡に追いやられたことの説明がつかないのではないか。そこで本項では、御恩と奉公がどのようなものであったか、それによってこの時代の武士がどのような価値判断で幕府に仕えていたかを述べることにする。

 

 御恩と奉公という場合、一般的にその御恩とは本領安堵新恩給与の二つのことを指す。本領安堵とは、武士がそれまで持っていた土地の権利を認めて保障をすること、新恩給与とは新しい土地を褒美として貰うことである。そして、奉公とはその見返りとして戦争があれば従軍し、土地からでた税金などを納めることである。

 しかしながら、御恩という言葉と命をかけて戦争に従軍する武士の仕事ぶりから、その関係は強権的な上下関係で一方的に奉公を強要する片務的な関係であったと誤解されがちであるが、その関係は極めて双務的なものだったのである。

 家永三郎は、桃源瑞仙の史記妙に「今日本に罪科の者を免して私領を給分に充て奉公させる様にぞ」と、書いてあるのをみて、「恩給の代償なしの奉公は、尋常の奉公ではなく刑罰の一種であったのを見ても、奉公が恩顧の反対給付としてのみ提供されるものであったことを確認するに足りるのである。」(家永三郎2007,p90)と、御恩の交換として奉公が存在していたことを説明した。また、北条五代記にも「此所領なかりせば、君をもたつとぶべからず戦場にて命をも捨べからず」という記述があることから、「武士の奉公は常に恩との交換という条件つきの忠義であったこと」(家永三郎2007,p92)としている。このように忠義というのは、恩があってこそのもので、主人が恩を欠くならば武士の方もまた奉公をする義務がないと考えていたことは明らかである。江戸期以前の武士には無償の忠義と言うものは考えられなかったのである。

 それならば、後世に忠臣と称えられ戦時中には南朝後醍醐天皇に忠節を誓ったことから臣民の模範とされ大楠公と称えられた楠木正成を代表する南朝の家臣たちはどうだろうか。

 亀田俊和は従来、忠臣ぞろいの南朝と考えられてきた南朝が実は内紛が多かったことを論じ、「普通の人間たちが、普通に欲得づくで行動する普通の姿しかない」(亀田俊和2014,p9)として南朝は忠臣だらけだったというイメージを否定している。また、家永も元弘三年の官軍軍法に「武士以下合戦の忠を致すのに輩に於いては、本所帯等安堵の外、各新たに不決の恩賞あるべし」(家永三郎2007,p99)という内容から、「勤皇の武士は畢竟そのような恩賞欲しさに天皇方についたものに外ならない」(家永三郎2007p99)とのべた。

 

 このようにみると、戦前を通して忠臣と祭り上げられていた南朝の家臣たちも結局は恩賞欲しさに従っていたに過ぎず、その姿勢は極めて功利的なものだったことがわかる。例えば[i]新田義貞鎌倉幕府からの多額の課税を拒否し使者を切り殺し半ば逆切れ的に倒幕に踏み切ったこと、楠木正成得宗との勢力争いから、後醍醐天皇に近づいたこと、そして、足利尊氏鎌倉幕府内でも高い家格を有しながらも、細川重男のいう[ii]特権的支配層に属しておらず、そのことから不遇を被っていたことからも、後醍醐天皇への忠節というよりも鎌倉幕府への不満から鞍替えしたと考えられるのである。このようにまさしく「武士の奉公は恩との交換」だったのであり、主がこの恩を果たせなくなったときに武士はその奉公を停止させるどころが、新たな主を探して公然的に旧主に歯向かっていたのである。

 

 以上のように御恩と奉公の主従の関係というのは現代の労使関係と殆ど変わらないもので、あったと考えられる。すなわち、恩=金銭が払われなければ労働者はその奉公=労働を行うことを止めそのような状態が続くならば、新たな雇い先を探し転職をするか、ストライキを起こし社内の改善を行う、それでも駄目ならば社長を交代させる様は、以上のようにみてきた武士と遜色のないものであると考えられるのである。

 そうしてみるならば、御恩と奉公という関係性が、労働契約であり、御恩がなければ奉公をやめるという比較的ドライなものであったということがわかる。武士は御恩という債務が履行されなければ反乱さえ辞さなかったのである。そのためこの御恩と奉公の結ぶつきをもつ関係をこの時代の「武士の労働者」として定義するのである。

 

[i] 海津一郎はその前に手に入れていた後醍醐天皇の綸旨を手にいれていたことから、その時点で倒幕の名目はできていたが、これを得て即、義貞が倒幕の旗頭になったことを意味するものではないとし、義貞が挙兵に踏み切ったのは偶発の要素が働いていたとした(海津一郎 楠木正成と悪党1999年)

[ii] 鎌倉幕府において、中央要職を独占していた層

連載【戦国時代型労働思想】②本来の武士とは何か

 武士道と聞いて、多くの人が想起すると考えられるモノに新渡戸稲造の『武士道』がある。しかしながら新渡戸がその著書『武士道』の中で述べている武士の事柄は、本質的には歴史上に生きた武士とは何ら関係のないことは、多くの研究によって明らかになっている。

 例えば佐伯真一は「新渡戸の武士道はそれまでの歴史とは断絶した新しい武士道である」(佐伯真一2004p253)と主張し、また、佐伯は「新渡戸が用いた武士道と、甲陽軍艦以来の諸書で用いられてきた武士道は、偶然に文字列が一致しているだけで、いわば他人のそら似のようなものである」(佐伯真一2004p255)とも述べ、新渡戸の「武士道」が日本の歴史や文化を根拠に書かれたものではなく、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で有名な江戸時代の武士道を著した山本常朝の葉隠れや、宮元武蔵の五輪書など武士道を論じた数々の書物とも一線をかくした新渡戸自身のオリジナルであると論じた。

 つまり、現代の我々が新渡戸の武士道から想起させられる武士像は全くの歴史的事実からはかけ離れたものであるということが言えるであろう。それでは、本来の武士というのはどのような存在であったか。

 新渡戸以外の武士像について私たちが、イメージするのは義や忠、信に篤い武士ではないだろうか。すなわち、忠臣蔵赤穂浪士新撰組会津の少年兵を集めた白虎隊などである。主君に忠誠を誓い、義に生き義に殉じるという江戸時代以降の武士こそが、本来の武士であると言えるのであろうか。

 

 武士というのは本来、戦闘を生業とする集団であることに異論はないと思う。しかし、その戦闘という職務が果たせない江戸時代という天下泰平の世が訪れた。戦闘者であるにも関わらず戦闘を行うことができないという矛盾にこの時代の武士というのは、大きく苦しんだようだ。それを示唆するかのようにこの時代多くの武士道論を著した本が出版された。その中でも最大の支持を集めたのが、山鹿素行である。素行もまた、この時代の武士とは何かを考えたようで彼はこう説く

「士は耕すことなしに食し、なにものも作ることなしに用い、商売もしないのに暮らしていける、それはなぜだろうか。(中略)職分がなくて食っていけるというのでは、それは遊民というものだ、だから、遊民とならないために、ひたすら心をこらし、自分の身についてよく考えてみなければならない。」(田原嗣朗1971p225)

 農民は稲作という職があり、職人には物を作る職があり、商人には売買というという職がある。しかし、士にはそのような職がない、職がないのに生きるのは天下に対する罪ではないかと、素行は考えた。士の職分とは何か、その考えに苦悩する素行がみてとれる。

「(前略)士にも職業がないはずはないとみずからをかえりみ、士の職分を明らかにしようとつとめて、はじめて、士の職分がはっきりするのである。」(田原嗣朗1971p226)

そして、考えに考えた末に出した結論が以下となる。

「(前略)およそ士の職というのは、主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独りをつつしんで義をもっぱらとするにある」(田原嗣朗1971p226)

 素行が考えた士の役割とは、まさしく私たち現代人がイメージする武士に近い。すなわち「忠、信、義」を重視する武士である。しかしながら、[i]この素行の答えは戦闘を生業とする武士という役割から時代を経て暇になったということになる。戦闘行為を脱した武士それが本来の武士であると言えるであろうか。また、それは、素行の唱えるこれらの思想は武士道ではなく一般的に[ii]士道と説明されていることからも明らかである。

 

 

 それでは、武士とはどのように定義できる存在であろうか、菅野覚明氏はその著書『武士道の逆襲』において、様々な時代の武士の特徴を最大公約数的に考え暫定的な定義として以下の三点からなるとしている。

「まず第一に、それは戦闘を本来の業とする者である。(中略)武士は、普段の日常生活そのものが、根本的に戦いを原理にしている人々だということである。第二に武士は、妻子家族を含めた独特の団体を形成して生活するということである。(中略)そして第三に、武士は、私有の領地の維持・拡大を生活の基盤とし、かつ目的とする存在だということである。そしていうまでもなく、所領を維持・拡大する力は、第一点の武力を行使する戦闘にあるということになる。」(菅野覚明2004p33)

 菅野のいう定義では、武士は戦闘を生業としそれをもって家族を含めた団体を形成し、自身の土地を拡大するものとされる。そして、大事なのはその拡大する力が「武力を行使する」戦闘にある。

 菅野の定義に従えば、農業に勤しみながら雇われで戦にでる足軽は武士ではないし、戦闘を生業としていても団体を形成しえない浪人などは武士ではなく、また、[iii]自身の土地を拡大するのに「武力」を行使しない江戸期の武士もまた武士ではないとなる。太平の世で武力を行使して自身の土地を拡大するということは不可能であるからだ。

 

 

 それでは、本来の生業に生きる武士とは何時代から何時代までの武士のことであると言えるのか、これに関しては明治の歴史学者である津田左右吉が、やはり新渡戸の『武士道』を批判しつつこう述べる

 「武士道は一の階級的思想なり(中略)所謂武士道の内容は既に源平時代に於て殆ど其の定形を得たるものの如し、保元平時物語以下歴代の戦記に閲して慶長元和の際に至る、其の間武士の気象と行動とに於いて多少の變遷を認むべきものなきあらざるも、こわむしろ其の枝葉の點、もしくは外形に關し、武士道の中心思想に至つては四百年間殆ど何等の變遷あるを見ざるなり」(津田左右吉 / 松島榮一編 1976p316、317)

 津田が言うには、武士道というのは「階級的思想」であり、「武士の気性と行動」であるその始まりは「源平時代」にあり、「慶長元和(江戸初期)」に行き着くとしている。

 ここで注目したいのは「階級的思想」と「武士の気性と行動」である。始めに階級的思想についてであるが、津田が指摘する階級的思想の階級とは、おそらく武士階級のことを指すのであろうが、本論では、武士道というのを武士階級の思想とはとらない。武士道というのが、日本史上に君臨した武士という特権階級の思想と考えるのは、武士の一面だけをみているだけに過ぎないと考えるからだ。

 津田の指摘した源平時代から江戸初期までの武士は、確かに武士階級として民の上に君臨し民とは違う為政者的存在であった。しかし、それは統治者としての武士という側面を強調しすぎているのではないだろうか。統治者としての武士というのは、先ほどの山鹿素行のように戦闘行為を脱した武士のことである。確かにその時代の武士も戦国大名や鎌倉御家人のように民を治め家臣を導く存在であった。その存在は素行のような江戸期の武士となんら変わらないだろう。そして、民を治め家臣を導くために素行の掲げる「忠、信、義」に生きるということを武士に課した。しかし、それは、あくまでも大名が統治のために家臣に課したものであり、武士自体がそのように考え生きたかといえばそうでもない。  

 

 

 例えば『朝倉宗滴話記』第十条には「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」とあるように武士というのは犬畜生と言われても勝たなければならないという精神がみえるのである。確かに武士と言うのは為政者でもある大名ともなればなおさらで、統治をするために家臣や領民に嘘をつかれては敵わないから、「忠、信、義」に生きることを説くこともあった。しかしながら、それは、統治者としての武士が求めた(求められた)ものであって、武士が生きるための信情、生きるための思想であったとは言いがたいのではないだろうか。

 よって本論では統治者としての武士のあり方を本来の武士とみないことにする。では、どのような武士を本来の武士とみるのかそれが、「武士の気象と行動」である。

 

 

 津田が言う源平時代から江戸初期までの武士とそれ以降の武士とでは何が違うのかというと、武士が本来もつ戦闘者としての職分をこの時代の武士は全うしていたということである。素行やその他の武士が自身のあり方に悩んでいたことをこの時代の武士は悩む必要がなかったのである。江戸期の武士の気性と行動が素行のいう「忠、信、義」にあったのに対して、この時代の武士の気性と行動は専ら「武力によって所領を維持・拡大」することにあった。すなわち江戸時代の武士が時代を経て変化する以前の戦闘者としての武士がこの時代の武士の気性と行動である。そして、その武士の気性と行動は「戦働き」にあった。そこで、本論ではその戦働きをする武士こそが本来の武士であるという風に考えることにするのである。また、何故に武士が戦働きをするのかと言えばそれは「所領を拡大するために妻子を養うため」である。そのために「勝つこと」が求められたのだ。そういう風にみていくとそこには民や家臣を統治する統治者としての武士だけではなく、力を用い勝つことで妻子を養っていく労働者としての武士がみえてくる。

 そこで、津田の指摘した時代の武士道とは、戦闘を生業とした「労働者階級」の意識と考えたい。武士道というのを武士特有の高貴で特別な武士だけの思想と考えるのではなく、普遍的な「労働者としての意識」と、考えていきたいのだ。例えば、従来では主従の論理と考えられてきたことは労使の論理として考えられる。武士を労働者であると考えることで、そにには、今まで考えられてきた「忠、信、義」を大事にする武士は存在しなくなる。我々、現代人と何ら変わらない功利的な武士が見えてくるはずだ。

 

[i] これをもって、佐伯は「士」の役割はついに戦闘の専門家ではなく、忠・信・義といった儒教的徳目を守ることとされるようになったと述べた(佐伯、戦場の精神史、227p)

[ii] 菅野はこれを太平の世が新たに生み出した儒教的な士道であるとのべるが、それは戦場における武士のあり方を否定したのではなく、儒教的道徳によって説明し直したのであるとしている。(菅野,武士道の逆襲p21,25)

[iii] 江戸時代では出世するのに家格であらかじめ決められていた。

連載【戦国時代型労働思想】①はじめに、なぜ過労死が起こるのか

過労死問題を扱う時に一番の疑問として挙げられるのが、「なぜ死ぬまで働くのか」ということである。

ここをまず解題せずして過労死問題を扱うことは難しい。

例えば古代の奴隷のように枷をはめられ強制的に働かされているわけでもない。働くことを監視され強要されているわけでもない(このこのとは教師や政治家、自営業でも過労死が起こることからも考えられることだと思う)

そのために過労死問題が起きるたびに「死ぬぐらいなら辞めればいいのに」と批判されることも少なくない。何故なら辞めようと思えば辞めれるからだ。極端に言えば出社しなければいいだけの話だ。

それに対して私は、日本的な武士道の忠義の概念がそのような行為を生み出したのではないかと仮説を立ててみた。主君に対して献身的に奉公する武士の行いが、現代の労働環境にも生き続け労働者を苦しめているのではないかと。しかしながら大野正和は著書『過労死過労自殺の心理と職場』の中で、過労死過労自殺を行う人たちの性格に「メランコリー親和型」という特徴があると主張した。これは簡単にいうと、真面目で責任感が強く人を思いやる性格なのだという。これだけ見ると良き日本人、良き労働者としての典型なのであるが、それだけではないようである。

 大野はこのように説明する。「過労死過労自殺の事例を検討すると、このメランコリー親和型の人の(中略)確かに自分の周囲の人たちとの関係が「尽くす」ということをとおして営まれている。だがそれは、母親が子供に対するように、あるいは、家臣が主君に対するように尽くすのとは違うようにみえる」(大野正和2003p60)

 また、「過労死過労自殺の事例をみていると、もう少し大きな個人を離れた要素がうかがわれる。だが、よくいわれる“会社への忠誠心”ともどこか違っている。」(大野正和2003p108)としている。

 被災者が過労に追いやられてしまうのは、忠義の概念とはまた違うようである。では、どのように違うのだろうか?

「周囲から信頼されているという負債=債務=借りを必死になって返済しようとして懸命に働いている。それは、「恩返し」としての仕事と言えるだろう。だが、どんなにがんばって働いても返しきれない負債を背負っていることが、過労死過労自殺者をつねに「負い目に」立たせる。(中略)「恩」には準超越的な要素がある。仕事によるなんらかの返済は義理のような世俗的なものではなく、「恩返し」というように準超越的要素をもつ全体的なものへの返済に通じる。」(過大野正和2003p110)

 つまり、メランコリー親和型の人は他者の信頼に応えようとする。その行いは信頼してくれたという恩に関する報恩の行為なのだという。そしてその、恩は「準超越的な要素」があるために返しても返しきれないのだ。そのために被災者は「負い目」を感じ働き続けているのだという。また、その被災者は、その性格、故に他人から仕事を振られれば断れない。そのため労働量の偏りが生じ、やがて過労死にいたるのだという。

 しかしながら、過労死の問題がこのように個人に起因するものであれば特定の人にだけ労働量が偏る社会構造や、36協定などの法律の不備を整理したところで、根本的な解決には至らないのではないのではないかと私は考える。極端な話「働きすぎれば死刑にする」という法律を作ったところで、前述のような人々はそれを守るだろうか。

 大野も「私は、「過労死をしない方法は」と聞かれた時には、「義理を欠くこと」を勧めることにしている。」(大野正和2003p180)

 とし、そもそも人間関係を気にしないことを防衛の一つとして挙げている。

 また、川村遼平は「労働者を過労へと駆り立てる圧力には、“働きすぎを”を前提にした、そして“働きすぎ”が評価されるような労働者同士の競争があった。こうした圧力を弱める鍵は、“働きすぎ”なくても生きていける社会をどう目指すか(後略)」(川村遼平2014p175)

 とのべ社会を変えていくために「だからこそ、問題は深刻なのだ。「ブラック企業の」非人道的な要求に応えてしまう労働者が、犠牲者であるとともに、ある意味では「共犯者」なのだから」(川村遼平2014p9)

 と、労働者の意識の変革が大事だとした。

 以上のように私は過労死問題を考える際に社会の変化よりも、人の変化を重視すべきであると考えた。しかしながら、管見の範囲では、その「変化すべき人」について述べられたことは、少なかった(あるいはなかった)かのように思う。

大野も「(前略)“仕事中心社会”を克服した「無邪気な個人主義」ではない“自分中心社会”をめざすべきだろう。」(大野正和2003p194)と、抽象的なことを述べている。私たちが過労死を防止する社会を形作っていくにあたって、どのような人間に変化するべきであろうか。

 そこで私は日本の文化、歴史とも言える武士に着目したのである。従来、武士というのは、階級的な意味合いとして捉えられてきて、私たち一般の人とは違う存在として認識されていた。しかしながら、彼らも戦闘を生業とする労働者である。また、その労働環境は現代の私たちよりも過酷であったと言える。そんな彼らの労働者意識にこそ多くを学べるのではないかと考え武士、とりわけ戦国時代の武士について本論では考察することにするのである。つまり、武士というのは支配階級のイメージが強いが、戦闘を業とする職業に従事する労働者であると考えるのである。

 

端的に言えば武士を階級として考えるのではなく労働者として考えることで以下の論を進めていくことにする。(続く)