もめなへむみ

歴史や経済ゲームを扱う場です。※このブログの内容は作者の個人的見解に基づくものである

連載【戦国時代型労働思想】⑭信長のブラック性と終わりに

 ここまで論じてきたように信長というのは、極めて過酷な主君であったことが言える。その元となったのはやはり前述したように兵農分離が原因であったといえる。そもそも武士というのは土地に根ざした集団であった。その土地が広ければ広いほど発言権が増し強大になっていくのである。しかし、その土地を全て信長のものとし家臣に支配を任せるのではなく、「預ける」信長の預治思想は藤田が「実際、信長の重臣クラスにおいてさえ、嫡子への相続は保障されていなかった」(藤田達生2010p180)と、いうように相続を前提としたものではなかった。武士の土地を否定し終世雇用を否定することは圧倒的に家臣の雇用の立場を弱くしたのである。

 

 

 今日、終身雇用というのはいたく槍玉に挙げられることが多い、その批判の声には代表的なものとしてこのようなものが挙げられる。曰く「働かなくても働いた人よりも同じだけ賃金が貰える終身雇用はおかしい優秀な人がきちんと評価される能力主義を導入しよう」と、しかしながら笠谷和比古は終身雇用のメリットとして以下の二点を挙げる。それは雇用の安定性と、成員の身分保障である。雇用の安定性は分かるとして、「成員の身分保障」とはなにか。笠谷は終身雇用は成員の身分保障という特徴があることから「上司や組織首脳部から命令や支指示がくだされている場合であっても、それに反して、現場の判断に基づいてより現実的で適切な措置を施したり、(中略)あるいは企業論理の観点から敢然と上部の指示に意義を申し立てるといったような思い切った行動は、実はこの終身雇用制のもっている「成員の身分保障」という機能によってこれまで支えられてきたのである。」(笠谷和比古2005p229)

 つまり、終身雇用というのは雇用者の立場を強くし、首になることを恐れず上下の枠を超えて能動的に活動できるというメリットがあるということである。それが、労働者のみならず使用者のほうにも得があるということは明らかである。

 しかしながら、信長の家中においてはこの「成員の身分保障」は否定されている。それは信長に意見をした信盛が追放されていることからも明らかである。このような労働環境の中ではその家臣たちは池上の言う通りに、過度な緊張状態に陥っていたのではないかということは容易に察せられることである。それはまさしく、ブラック大名といっても差し支えないものであると考えるのである。また、塚原英治はブラック企業の特徴として「低処遇・不安定雇用+広範な指揮命令権」(塚原英治2014p5)を挙げている。例えば正社員であれば使用者の命令権に基づいて残業を行わなければならないが、ブラック企業においてはパートやアルバイトにおいても使用者の命令権により、残業に従事させられるというのである。これは、兵農分離による不安定な雇用と信長の絶対的な命令権を想起させられるものである。

 以上のようにこれまで信長のブラック性を論じてきた。信長の家中においてはそれまでの武士の労働条件である「新恩給与」と「恩領安堵」を否定したばかりか、「終世雇用」すらも否定するものだった。武士は兵農分離により土地と切り離され不安定な雇用の立場に置かれ、職場である戦場は無期限に縦横無尽に繰り返され家臣は休む暇さえなかった。そして、それに不満を唱えれば謀反として追放されるか抹殺されたのである。以上のように信長というのはブラック大名であったと結論つけるのである。

終わりに

 本論では、過労死を防ぐための変わるべき「労働者」の規範として武士を挙げた。その中でも武士が従来、一般的に考えられているような「忠義」を大事にした存在ではなく我々一般人と変わらない功利的な思考をする労働者としての武士の側面を考察してきた。御恩と奉公の関係を主従の関係ではなく、労使の関係として捉え恩領安堵や新恩給与と恩領訴訟とでもいうべき訴える権利を満たすことによって始めて武士が労働者として定義づけられるとした。

 その主君との関係は極めて対等であって、例えば主君に対して、分国法の制定を促す六角氏の家臣などは、過労死を防ぐために模範とすべき労働者の鑑であったと言えるだろう。他にも大将の勤めとして、討ち死にしたものには何らかの特典でむくいるという当時の戦国大名の意識は、「見返りのない滅私奉公」を求めるブラック企業の経営者を戒める模範的な経営者であったともいえる。

 そして、それをせずに部下に過酷な労働を強いて独裁的にふるまった信長が本能寺の変に消えたことは、彼の政策の致命的な欠陥であったといえ、それは同じくブラック企業の欠陥であると言えるのではないかと考えるのである。例えば鎌倉幕府の特権的支配層は、自らの支持基盤である武士のニーズを無視し彼等から搾取することをやめなかった。故に多くの謀反を招き滅んだのではないか。これからも、労働者のニーズに応えることがいかに大事であるかを学べる好例であるとは言えないだろうか。

 しかしながら、本論では、三章ブラック大名織田家と題しながら他家との比較が不十分であると考えられる。これは、今後の課題として各国の戦国大名の軍事行動の時期やそれに伴う武士の負担、また、休暇などはどのようになっていたのかはこれからも一考に価する課題であると考える。上杉家を比較としてだしたが、そもそも豪雪地帯で稲作も不十分な地域と、今の名古屋の繁栄をうかがわせる豊かな尾張の軍事行動を同列に語るというのも如何なものかという批判もあると思う。また、現代のブラック企業とブラック大名との比較も不十分であったと考える。であるので、これらのことは今後のテーマとして考察していきたいという思いである。

 本論では戦国時代の武士の気性と行動を「戦国時代の武士道」として捉えなかった。題名にある通りにあくまで戦国時代の武士の気性と行動は「労働者意識」である。正直な話、戦国時代の武士の気性と行動をそれ以降の武士道とは全く違うが「違うだけで武士道は武士道」であると考えたほうが、よほど分かりやすく、また、楽であった。しかしながら、そもそも武士道という語が江戸時代に初めて出てきた言葉でもあるし、武士を労働者として考える本論からは、「武士道」の語は不適切であると考えたからだ。武士道というとどうしても武士特有の崇高な理念であるかのように想起させられるからだ。そうではなく、彼らも私たちとなんら変わらない労働者であることを何よりも強調したかったのである。また、武士の考えること全てが武士道とするのにも違和感があった。そのような考えの下で、本論では武士から忠義を切り離して考えることにある程度成功したのではと考える。

連載【戦国時代型労働思想】⑬織田信長はブラック大名か?(2)過酷な出世争い

このように信長の実力主義というものは徹底して行われていたことがわかる。例えば羽柴秀吉明智光秀が低い身分から能力を評価されて華麗な出世街道を走っていたのを見て、我々は優秀な上司織田信長に思いを馳せる。しかしながら、実力主義ということはそこで実力を発揮できずに落ちていったものもいるはずである。そこで、以下では織田家での出世競争に敗れた武士たちについて述べることにするのである。

 佐久間信盛という武将は一般的に知られていない織田家の家臣である。織田家の古くからの重臣と言えば新参の羽柴秀吉に対して柴田勝家が挙げられるが、佐久間信盛はこの2人よりもある時期では地位が上だったのである。楠戸義昭は信長が京都に上洛した時期を指しても「このころ、小者から身を起こした藤吉郎、また将軍義昭の仲介の労をとり、信長の家臣に加えられた明智光秀の台頭が著しくなる中、信盛はまさに彼らの上をゆく、信長が最も信頼する家臣であった」(楠戸義昭2004p71)と評価している。また、信長公記にはこのような話がある。

 

朝倉義景との合戦の最中に信長は「必ず今夜中に敵は退却するからその好機を逃すな」と言い放ち家臣に言明したものの、多くの家臣は信長の言うことを信じず結局、信長だけが敵を追いかけることになってしまった。それに信長は立腹し家臣に激怒した後に滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉などの歴戦の将が「信長公に先を越されし面目もございません」と謝罪したところ佐久間信盛だけが「そのようにおっしゃられるが、我々ほどの優れた家来をお持ちになることはめったにない」と、反論したのである。

 

 このように信長に何もモノを言い返せない家臣が多い中、信盛だけははっきりとモノをいうことができたのである。また、信長公記にはその後に信長が家督を息子の信忠に譲り岐阜城を出た後も、仮の住居としたのは信盛の館であったと記述しているし、このように佐久間信盛というのは、織田家臣の中では別格の存在であった。また、谷口克広は天正四年に信盛が柴田勝家と並んで方面軍司令官に任じられたと論ずる。谷口は方面軍司令官について、「方面軍は万与の軍兵を擁し、名だたる戦国大名と単独で矛を交えるのだから、その司令官は並大抵の者には務まらない。戦国の世の一流の武将たちと言えるだろう。並み居る信長の家臣の中でも、延べ六人しか到達しなかった究極の地位である。」(谷口克広2005pⅱ)と、説明している。しかしながら最終的に佐久間軍団は三河尾張、近江、大和、河内、和泉、紀伊と七カ国に渡る与力が与えられていることが判明しているので、方面軍司令官の中でも抜きん出た性質のものだったことがわかるのである。このように信盛は織田家の№2という地位にいたといっても差し支えないのである。

 

 しかし、その信盛も天正八年突如信長から追放されてしまうのである。以下はその信長が信盛に向けて書いた折檻状を一部抜粋したものである。全部で19条もあるので色々書かれているけれども、基本的には「お前は無能なので追い出す」と、いった内容である。前述したように佐久間信盛というのは、決して無能な武将と言える者ではなかった。信長との仲も比較的良好であったとも言えるし、出世街道を問題なく歩んでいたとも言える。どうして信盛が追放されたのかは、異説が色々あり定まったことは一つもいえないのであるが、元来佐久間氏は信長の父信秀からの譜代の臣の家で、桶狭間の戦いでは信盛の前の総領である盛重が討ち死にするほど信長に仕えた家系である。それを信長の一声だけで追放の処分にできることが、この時代での絶対的な上司である信長とそれに仕える家臣という力関係が出来上がっていたのが言えるのである。

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ここまで信長が過度な実力主義者であると論じてきたが、結局のところその実力と言うのも信長の気にいるか気に入らないかで気分次第で左右されていたようである。そうでなければ実力者であるはずの佐久間信盛が追放されるというのも変な話である。以下の表は一郡以上の領主に任命された人物の一覧である。(ただし、一門は除く)

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 以上の表を見てみると明らかに信長の出身である尾張と隣接する美濃の出身者が多く、また信長を裏切っているのはそれ以外の外様であることがわかる。要するに外様であれば織田家に不安を抱き謀反を起こし、譜代であってもいくら忠節を示そうと信盛や直政のように信長の心情如何で簡単に没落していってしまうのである。池上は織田家のこのような環境を以下のように述べる「戦功を積み重ねても、謀反の心をもたなくても、信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない不安定な状態に、家臣たちは置かれていた。一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣にはより強い不安感があった。独断専行的で、信長への絶対服従で成り立っている体制が、家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。」(池上裕子2012p276)

 

このように信長の過度な強権、独裁は信長の強さであると同時に弱さでもあった。信長の独裁はすぐに謀反を招きその基盤は常に不安定であったとも言えるのだ。

連載【戦国時代型労働思想】⑫織田信長はブラック大名か?(1)武士の労働条件の否定

(1)武士の労働条件の否定

 前に織田家の特質は兵農分離にあると論じた。しかしながら、兵と農を分離させるということは、土地に根ざした武士というのを否定することである。一章では鎌倉・室町時代の武士が何よりも土地を「所有」していたことを論じた。その武士の土地の所有を信長は兵農分離を行うことで否定しようとしたのである。藤田は兵農分離を行う条件としてこのように論ずる「軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・領民との絆を否定することが前提となる」(藤田達生2014p22)

 このように信長が行ったことは武士と土地を切り離すことであった。そのために[i]信長は自身の拠点を行く度も変更した。①那古野城②清須城③小牧山城岐阜城安土城と、実に四回も移転しているのである。特に安土城の関しては[ii]妻子を連れて引越しをしない家来に対して、尾張にいる妻子の家を焼き強制的に安土へ移住させたという話もある。このように家臣を自身の城下町へ集めることに並々ならぬこだわりがあったことが伺えるのである。

 また、藤田は信長がかなり強権的な城割を大和で行っていたことを指摘する。城割というのは江戸幕府が行ったような「一国一城令」と、同様のものでその国の城を本城を残して破壊することである。また、それにあわせて検地をも行った。藤田によれば「城割と検地によって、理念的に大和一国は明確に織田領になったのであり、筒井氏は信長の代官として領地・領民・城郭を預けられたのである(後略)」(藤田達生2014p100,101)要するに信長は、一旦土地を自分のものとし詳細に調べ上げた上で家臣に「預け」たのである。これは、従来までの大将の役割とされた御恩、本領安堵新恩給与を否定する行為であったとも言える。例えば信長は重臣である柴田勝家に越前を与えた時に国掟を定めた。その内容にはこのようにある「一、越前という大国を預けておくからには(後略)」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)つまり、信長が家臣に土地を与えたのではなく、「預けた」ということが明確にされている。また、「一、新しい事態が生じた場合でも、何事においても信長が申す指図に従って実践する覚悟が肝要である。(中略)とにもかくにもわれわれを尊敬し、たとえうしろ影を見たとしても、おろそかに思ってはならない。われわれのいるほうへは足をも向けぬ心がけでいることが肝心である。」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)とある。何かが起きても信長の言うとおりに行動せねばならず、大国を預けられたといってもその権限は基本的に信長に由来するものであることが分かる。また、信長を敬い尊敬し絶対的な忠誠心を持つことが求められていることがわかるのである。

 このような信長の政策を藤田は「預治思想」と名づけた。具体的にいうと「彼が到達したのは、家臣団に本領を安堵したり、新恩を給与したりする伝統的な主従制のありかたを否定し、大名クラスの家臣個人の実力を査定し、能力に応じて領地・領民・城郭を預けるという預治思想だった」(藤田達生2010p177,178)

 このように信長は従来のやり方ではなく、「実力主義」により、武士の能力を測りその能力によって、武士に土地を「預けて治めさせた」のである。実力主義ということは、その土地に相応しくないと判断されれば直ちに没収されることを意味していた。それは、前章で述べた武士の「終世雇用」をも否定することである。

 信長の家臣に塙(ばん)直政という武将がいる。元は信長の馬周りでその中の精兵集団赤母衣衆の一員である。しかし、只の馬周りではなく信長の上洛後に京都の行政に携わり次第に頭角を表していったのである。さらに天正三年に信長のはからいで明智光秀羽柴秀吉と共に官位と性を賜り「原田備中守直政」と証した。また、南山城と大和を支配し、その時代で柴田勝家が越前八郡、羽柴秀吉が北近江二郡、明智光秀は北山城と近江一郡であり、この時点で馬周り出身の直政が並み居る武将と同格以上の待遇であったことがわかる。

 さて、この直政は後述の佐久間信盛の前任者として対本願寺の責任者として任じられていたのであるが、その合戦の最中に戦死してしまったのである。ここまでこの時代の雇用慣行であった終世雇用の常識に当てはめて考えてみれば、直政の子孫は優遇されるはずである。しかしながら、信長は直政の一族郎党を厳しく追及したのである。谷口克広は「生命を失うほどの戦いを敢行した者に対して、信長の仕打ちはあまりに冷酷といわねばならない」(谷口克広2011p70)と、述べている。

 このように織田家中においては前述した『朝倉宗滴話記』の第11条のような「大将たるものは(中略)第一に家来たちがよく成り立って行くようにと、普段から心がけねばならぬ。忠実に奉公を尽くした者の後はことにそれを取り立て、幼少の子どもがあったならば、無事に成人するように、面倒を見ることが肝心である。」

 の精神はなかったのである。このように親の討ち死にで子が出世という雇用慣行に反して織田家中においては討ち死にというのを失態として捉え、その責任を一族に負わせたのである。

 

[i] その他、京都への交通を優先したためでもある

[ii] 信長公記「家来集の妻子を安土に移す」

上で織田家の特質は兵農分離にあると論じた。しかしながら、兵と農を分離させるということは、土地に根ざした武士というのを否定することである。一章では鎌倉・室町時代の武士が何よりも土地を「所有」していたことを論じた。その武士の土地の所有を信長は兵農分離を行うことで否定しようとしたのである。藤田は兵農分離を行う条件としてこのように論ずる「軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・領民との絆を否定することが前提となる」(藤田達生2014p22)

 このように信長が行ったことは武士と土地を切り離すことであった。そのために[i]信長は自身の拠点を行く度も変更した。①那古野城②清須城③小牧山城岐阜城安土城と、実に四回も移転しているのである。特に安土城の関しては[ii]妻子を連れて引越しをしない家来に対して、尾張にいる妻子の家を焼き強制的に安土へ移住させたという話もある。このように家臣を自身の城下町へ集めることに並々ならぬこだわりがあったことが伺えるのである。

 また、藤田は信長がかなり強権的な城割を大和で行っていたことを指摘する。城割というのは江戸幕府が行ったような「一国一城令」と、同様のものでその国の城を本城を残して破壊することである。また、それにあわせて検地をも行った。藤田によれば「城割と検地によって、理念的に大和一国は明確に織田領になったのであり、筒井氏は信長の代官として領地・領民・城郭を預けられたのである(後略)」(藤田達生2014p100,101)要するに信長は、一旦土地を自分のものとし詳細に調べ上げた上で家臣に「預け」たのである。これは、従来までの大将の役割とされた御恩、本領安堵新恩給与を否定する行為であったとも言える。例えば信長は重臣である柴田勝家に越前を与えた時に国掟を定めた。その内容にはこのようにある「一、越前という大国を預けておくからには(後略)」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)つまり、信長が家臣に土地を与えたのではなく、「預けた」ということが明確にされている。また、「一、新しい事態が生じた場合でも、何事においても信長が申す指図に従って実践する覚悟が肝要である。(中略)とにもかくにもわれわれを尊敬し、たとえうしろ影を見たとしても、おろそかに思ってはならない。われわれのいるほうへは足をも向けぬ心がけでいることが肝心である。」(信長公記.巻八、越前の一向一揆を退治)とある。何かが起きても信長の言うとおりに行動せねばならず、大国を預けられたといってもその権限は基本的に信長に由来するものであることが分かる。また、信長を敬い尊敬し絶対的な忠誠心を持つことが求められていることがわかるのである。

 このような信長の政策を藤田は「預治思想」と名づけた。具体的にいうと「彼が到達したのは、家臣団に本領を安堵したり、新恩を給与したりする伝統的な主従制のありかたを否定し、大名クラスの家臣個人の実力を査定し、能力に応じて領地・領民・城郭を預けるという預治思想だった」(藤田達生2010p177,178)

 このように信長は従来のやり方ではなく、「実力主義」により、武士の能力を測りその能力によって、武士に土地を「預けて治めさせた」のである。実力主義ということは、その土地に相応しくないと判断されれば直ちに没収されることを意味していた。それは、前章で述べた武士の「終世雇用」をも否定することである。

 信長の家臣に塙(ばん)直政という武将がいる。元は信長の馬周りでその中の精兵集団赤母衣衆の一員である。しかし、只の馬周りではなく信長の上洛後に京都の行政に携わり次第に頭角を表していったのである。さらに天正三年に信長のはからいで明智光秀羽柴秀吉と共に官位と性を賜り「原田備中守直政」と証した。また、南山城と大和を支配し、その時代で柴田勝家が越前八郡、羽柴秀吉が北近江二郡、明智光秀は北山城と近江一郡であり、この時点で馬周り出身の直政が並み居る武将と同格以上の待遇であったことがわかる。

 さて、この直政は後述の佐久間信盛の前任者として対本願寺の責任者として任じられていたのであるが、その合戦の最中に戦死してしまったのである。ここまでこの時代の雇用慣行であった終世雇用の常識に当てはめて考えてみれば、直政の子孫は優遇されるはずである。しかしながら、信長は直政の一族郎党を厳しく追及したのである。谷口克広は「生命を失うほどの戦いを敢行した者に対して、信長の仕打ちはあまりに冷酷といわねばならない」(谷口克広2011p70)と、述べている。

 このように織田家中においては前述した『朝倉宗滴話記』の第11条のような「大将たるものは(中略)第一に家来たちがよく成り立って行くようにと、普段から心がけねばならぬ。忠実に奉公を尽くした者の後はことにそれを取り立て、幼少の子どもがあったならば、無事に成人するように、面倒を見ることが肝心である。」

 の精神はなかったのである。このように親の討ち死にで子が出世という雇用慣行に反して織田家中においては討ち死にというのを失態として捉え、その責任を一族に負わせたのである。

 

[i] その他、京都への交通を優先したためでもある

[ii] 信長公記「家来集の妻子を安土に移す」

連載【戦国時代型労働思想】⑪織田信長はブラック大名か?織田家の労働環境

 織田信長という人物は、非常に人気の高い人物である。例えば2009年の転職サイトのリクナビNEXT[i]「上司にしたい戦国武将ランキング」では、1位に輝いているし、同じく転職サイトのORICONキャリアの[ii]「上司にしたい偉人」には2位にランクインしている。他にも様々な媒体、ランキングで好成績を収めており、戦国時代のみならず日本史を代表する人物である。

 さて、その信長が現代人にウケル理由として、革新性とかカリスマ性が挙げられる。例えば身分の低かった秀吉を登用したりといった能力主義、当時としては革新的(と、される)政策を行ったりといった合理主義、桶狭間の戦いなどに見られる優れたリーダーシップが評価されてのことだろう。確かに織田家(信長の弾正忠家)は、尾張を守護する斯波氏の守護代、織田大和守家に使える三奉公の一つでしかなく、斯波氏の家臣のそのまた家臣という、決して高い身分の出身ではなかった。

 そんな環境から日本を統一する一歩手前まで、勢力を広げたということは、並大抵の武将ではないということに異論を挟む余地はないであろう。しかしながら、そのような急激な勢力拡大や革新性に家臣はついていくことができたのだろうか。やはり、家臣の方にも並大抵以上の苦労があったのではないかということは、容易に察せられることである。果たして信長というのは現代の我々が思うような「理想の上司」であったと言えるのだろうか、そんな織田家の労働環境とは、ブラック企業ならぬブラック大名家ではなかったのではないだろうか。そこで、本章では織田家の労働環境について当時の戦国大名と比べて、どの程度違い、どのようなものであったのかを、考察するのである。

1織田家の労働環境

 この時代の武士の職分は、戦働きにあった。戦場に出て槍働きをするのが、武士のお仕事であったので、職場は戦場にあったといえる。そこで、織田家と他家との戦争の特質の違いから労働環境を考察することにするのである。下記は信長の主な戦争と、上杉謙信の出兵パターンを比べたものである。

2 信長の出兵パターン 出典 太田牛一『信長公記

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 3 上杉謙信の出兵パターン 出典 藤木久志『雑兵たちの戦場』

 

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 まず、上杉謙信の出兵パターンには二つの特徴があると、藤木久志は指摘する。「目立つのは、晩秋にかけて年末に変える冬型(短期年内型)の戦争と、晩秋に出かけて年を越し、春か夏に帰る冬春型(長期超冬型)の戦争で、関東出兵には冬春型(長期超冬型)が多い。これと、反対に、北信濃や北陸への出兵は、ほとんどが冬型(短期年内型)や短期の不定期型で、とくに決まった傾向がない」(藤木久志1995p94)

 表でも一見して分かるように関東への出兵が11月と冬に集中し、帰ってくるのが、2、3月と春に帰還していることがわかる。このようにこの時代の上杉氏の戦争には秋冬に軍事行動をという季節性があることがわかる。

  このような季節性はどうしてうまれるのか。藤木はこのように論ずる「二毛作のできない越後では、年が明けて春になると、畠の作物が穫れる夏までは、端境期といって、村は深刻な食糧不足に直面した。冬場の口減らしは切実な問題であった。」(藤木久志1995p96)

 このように戦国の戦争は農業と密接な関係があった。上杉謙信の出兵パターン表をみても収穫の終わった11月以降に関東へでてそこで食いつなぎ、手柄をもって春に帰還しているということがわる。また、この時代の兵は多くの場合農民を主体とした傭兵である。11月に出兵することは、農閑期で農業の終わった農民を連れていくという意味もある。つまり、より多くの兵を連れて行くには農閑期でなければならなかったのだ。

 これに対して、信長の場合はどうだろうか。表をみると暖かい四月から八月にかけて軍事行動を起こしているのが目立つが、年末や年明けに出兵したりと、特に合戦を行う時期が限定されていないことがわかる。この織田家の特質はどのように生まれたのであろうか。[iii]藤田達生はこれを兵農分離によるものだと説明する。兵農分離とは、兵を専業化させ農業から離れさせることで、農業の時期に左右されない独立した軍団を創出することである。これにより、信長は抜群の機動力を持った「時期に限定されない軍隊」を持つことができたというのである。

 しかしながら、時期に限定されない軍隊というのは、毎日が繁忙期みたいなものである。農閑期に軍を起こし農繁期に軍を休める上杉家の軍事行動と反し、織田家では農閑期でも農繁期でも戦争を行うことができる。これは決まった休みを持たない常に戦争をし続けることであり、織田家の武士からすれば過剰な労働恒常的に求められたのではないかと言えるのではないかと考えるのである。特に1568年京都へ上洛を果たしてからは、西へ東へ縦横無尽に戦場が広がっているのである。織田家に仕える武士としては息つく暇もない労働環境であったのではないかと考えられるのである。

 池上裕子は織田家の戦争の特質を「軍役数を規定せず、各武将の裁量で兵力をできるだけ多く組織させ、際限もなく連続する多方面攻撃に思いのままに動員するというのが信長の戦争仕方であった。」(池上裕子2012p264)と、述べているように織田家においてはどれぐらいの兵を持っていくのかも規定がなく、各自の裁量に任されていた。しかし、それは例えば自身にとって楽になるように設定できるわけでもなく「どれだけの兵数を率いるかも忠節心の度合いを示すものとして信長の目が光るであろう。」(池上裕子2012p264)と、どれだけ連れて行くかによって信長に覚えがめでたくなるかの度合いが決まっていたのである。それをせずサボってしまえば後述する佐久間信盛のように追放の憂いき目にあうのである。

 

[i] リクナビNEXT「上司にしたい戦国武将ランキング」

 http://next.rikunabi.com/01/sengoku_sengoku/sengoku_sengoku.html

 

[ii]ORICONキャリア【働きビト】上司にしたい偉人1位に「坂本竜馬http://career.oricon.co.jp/news/75997/full/

 

[iii]藤田達生『信長革命「安土幕府」の衝撃』

連載【戦国時代型労働思想】武士は忠義ものか

 ここまで武士から忠義という概念をはずし、我々となんら変わらない功利的な労使の関係に基づく労働者であると論じてきた。武士の忠節の最たる行いとされる「討ち死に」も死ねば得となる社会だから起こったものであり、その名誉も子孫のためを思えばこその利益の交換であった。

 しかし、例えば「我に七難八苦を与えたまえ」という名言で有名な山中幸盛のように何度も主家の再興を目指し立ち上がり、最後には捕らえられ殺されてしまったような武将もたくさんいる。また、石田三成のように豊臣家のために義に殉じた武将だっていると異論を挟む人も多いと思う。

 しかしながら、そのような武将も本当に忠義の士であったのかと、いうのは、本論の趣旨からすれば異論を唱えざるを得ない。史料的に実際はどうだったかを論じる余裕はないし、そのような能力もない。ここでは、どうして我々が武士に忠義があると勘違いするのかを述べることにする。

 例えば武士が「私は褒美も土地もいりませんただ主君のために仕えるのみです」と発言したところ、これを我々は忠義ととるべきだろうか。武士が労使の関係であると考える以上、その武士の言葉や行動もまた労働者の考えかたであると考える。この発言を現代に置き換えて改めるとこうなる。労働者「社長のためなら給料も何もいりません」果たしてこの言葉からは愛社精神を読み取るべきであろうか。普通の人はこの行為をおべっかとか、お世辞と捉えるだろう。しかるに武士の上記の発言だけ忠義の士、武士の鑑であると捉えるのは如何なものかと考えるのである。

 社会心理学用語に「帰属の基本的エラー」という言葉がある。山岸俊男はこれを「相手の行動から「相手の意図」を推し量る性質が人間におきる認知の間違い」(山岸俊男2015p93)と、説明している。山岸俊男によると例えばキャバ嬢が親切によく話してくれるのを自分に好意があるのではと考えたり、遅くまで残業している人を、仕事が大好きな会社人間と判断したりといった具合である。後者の場合で言えばたとえ自分が嫌々ながら残業していたとしても、他の人が残業しているのをみると嫌々ながら働いているのではなく、愛社精神豊富な人間だと判断する。これが「帰属の基本的エラー」だと説明する。

 これは、武士の発言の場合にも同様のことがいえるのではないかと考える。つまり、お仕事で「私は褒美も土地もいりませんただ主君のために仕えるのみです」と、発言しているのを、武士は忠義に生きる者だからおべっかでもお世辞でもなく、本心からであると「帰属の基本的エラー」を起こしていないだろうか。それは、キャバ嬢に騙されるお客と同じではないかと考える。討ち死にした武士をみてどうして討ち死にしたのか、それは忠義者であったからだと考える。しかしながらそれは内部の気質的な面を重視して外部の死ぬことで得する社会であったという状況的な面を排除した考え方である。例えば歩きスマホする子を性格まで最悪な人間だと判断したり(歩きスマホすることと性格は関係ない)討ち死にする武士を忠義者だと判断したり(討ち死にと忠義は関係ない)ということである。このように帰属の基本的エラーが働いているのではないだろうか。

 以上のように考えるならば、今一度、忠義の士だとか、義に殉じた武将だとかという評価も再考されるべきではないかと考えるのである。

連載【戦国時代型労働思想】⑨去留の自由と終世雇用

 (1)去留の自由

 ここまで武士というのは、主従の絶対的な関係ではなく功利的な労使の関係で、かつ大名と対等の存在で、名誉意識が高く反逆権を有していたと述べた。

 しかし、そうした扱いにくい武士たちの就職環境とはどのような状態だったのだろう。上に述べたことの通りならば行く先々でトラブルばかり起こし禄に主に仕えることはできなかったのではないだろうか

 

佐藤進一は鎌倉から南北朝での伝統的な武士の身の振り方をみて「譜代の家来には忠誠義務があり、そうでない家来には謀反の自由があるということになる」(佐藤進一1965p177)と述べこれを去留の自由と説明した。また、小和田哲男氏は去留の自由をより詳しくこのように説明する。

「仕えた主人に、そのまま仕えて留まるのもいいし、主人を見限って去るのも自由であるということで、主人を裏切ることが、決してうしろめたい、やましい行為ではなく、武士たちの当然の権利として認識されていたことを示している。(中略)自分が仕えた主人が、自分の能力を引き出してくれないとか、あるいは、自分が思ったほど知行をくれないとか、不満をもった場合そこを飛び出すのは勝ってだった。」(小和田哲男2014No.28)

 主従の関係が労使の関係であると考えるならば、当時の就職環境は比較的自由なものであったといえる。それは、武士が必ずしも地縁・血縁に縛られたものではなく、自らの自由な意思によって職場先を取捨選択できたことを示している。また、本来の武士において「忠臣は二君に仕えず」という態度は幻想であったということも分かる。

 それは、佐藤が「譜代には忠誠義務があり」と述べているが、戦国期を通して譜代も去留の自由を獲得していったからだ。例えば藤堂高虎は「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ。」と、有名な言葉を残して、自身も十人の主君に使えているし、今年、大河「真田丸」で登場した穴山梅雪は武田家一門であっても、落ち目の主家を見限り織田へ鞍替えしているのである。朝倉景鏡も朝倉家の一族かつ重臣ながら主君義景を自害に追い込み織田家へと転職していったのである。このような例を挙げれば枚挙に遑がないことからも必ずしも少なくとも戦国時代においては佐藤のいうような譜代においても忠誠義務が課せられていないことが分かるのである。このような戦国時代の就職事情は現代の職場事情が転職を推奨せず、新卒主義であることとは対照的である。

(2)終世雇用

 ここまで武士という存在を武士階級ではなく、戦働きに従ずる労働者であると述べてきた。労働者であるはずの武士にはこれまで考えられてきた「忠義」の概念などではなく、功利的なドライな関係であったはずだというのが、ここまでの趣旨である。

 ひとまず武士から忠と言う概念を捨てて考えるのが本論の要である。その場合、戦国武士ならぬ多くの武士が命を捨てて戦場に散っていた「討ち死に」という行為はどのように考えるべきであろうか、主君のために命を捨てて奉公している武士の行動こそまさしく「忠義」の姿勢ではないだろうか。いや、しかし、それすらも功利的な関係に基づいた損得計算が働いた行為であったと述べるのが本筋の内容である。

 一般に当時の武士(にかかわらず普通の民衆も)が名誉に非常にこだわっていたことは述べた。それでは、どうして武士は名誉に強いこだわりがあったのだろうか。先の万五朗も武士が功利的な関係であるならば、ここはグッと堪えて耐えて忍ぶか、他国に亡命をすればいい話である。しかし、万五朗はそれをせず自身を侮蔑した主君を殺し、切腹した。己の名誉を示し、守ったのである。功利的な関係であったと考えるならば、ここでは己の名誉を守ることで得をする社会であったからだと考えるべきである。

 武士の最大の人生目標はなにであったか。武士の仕事が戦働きにあったことから、自身の土地を広げ大きくすることと勘違いしがちであるが、事実はその土地を子孫に継がせることにある。家永も「何が究極の目的であったかと言えば、一家を全うし子孫を繁栄させることであったのである。」(家永三郎2007p105)と、述べているように、また、菅野の武士の定義の二番目にも「武士は、妻子家族を含めた独特の団体を形成して生活する」と、あるように武士と家族(あるいは「家」と言い換えてもいい)は密接な関係にあった。

 しかしながら、武士の言う子孫というのは必ずしも「血」が繋がっている必要はなかった。これは現代の天皇が男系という血統にこだわっているのとでは、対照的であるが、武士は血統が続くことよりも家が絶えることの方を問題視していた。例えば鎌倉将軍は、初代「源頼朝」の血統は三代目で絶え、四代目からは京都から有力者の子息を迎え入れ「将軍家」を継がせたのである。頼朝の直接の血統は絶えたとはいえ未だ代わりの源氏の血はいくらでもいたのにである。また、一般に士農工商で知られ身分に厳しかったと言われる江戸時代でも困窮した武士が金銭と引き換えに農民や町人に[i]御家人株の売買を行っていたこともある。このように武士は血よりも家を大事にしていたのである。

 家を大事にしていた武士が、何にも増して名誉を大事にしていたということは、その名誉が家の存続に関わるのではないのかと考えられるのである。それでは、いかにして名誉は高められることになるか。

それは名誉ある死「討ち死に」に他ならない。例えば、結城氏新法度代42条に「中臣の子孫が窮乏しているならば、我々にとって由々しき問題である。質屋より元金も利子も3分の1に免じてもらうべきである(後略)」(クロニック戦国全史1995p740)とある。ここでいう忠臣の子孫というのはおそらく討ち死にした者の子孫ではないかと考えられるが、(普通に仕えて貧乏になっただけでは、忠臣とはみなされないだろうし、親が病死した場合と考えても忠臣の子孫とするのは弱いと考えるからだ。)親が討ち死にした場合は利子を負けて貰えるという特典が与えられた。『朝倉宗滴話記』の第11条にも「大将たるものは(中略)第一に家来たちがよく成り立って行くようにと、普段から心がけねばならぬ。忠実に奉公を尽くした者の後はことにそれを取り立て、幼少の子どもがあったならば、無事に成人するように、面倒を見ることが肝心である。」(小和田哲男1981p189、190)

と、忠誠をもって死んだ者に幼い子がいたならば、成人まで面倒をみるのが「大将の勤め」と、している。このような考え方であれば、「自分が死んだとしても家の面倒は見てくれる。ならば、華々しく討ち死にして子供を取り立てて貰おう」と、武士が考えても不思議はないのである。ここで父の功績(討ち死に)により、子が優遇されたケースをいくつかあげる。

 中川秀成は賤ヶ岳の戦いで戦死した清秀の次男である。長男、秀政が暗殺された。討ち死にとは違い暗殺など「無覚悟」の時は所領が没収されることになっていたが、父、清秀の功績により半分だけ相続することを許されたのである。

鳥居元忠関ヶ原の際、伏見城に数千で居残り、数万の西軍の大軍の前に討ち死にした。通常、徳川幕府内での譜代の石高は井伊家の10万石が良いほうなのであるが、子の忠政は山形藩24万石の大名に昇格している。

土屋昌恒は織田・徳川の甲州征伐において逃亡する主君、武田勝頼の自害の時間を稼ごうと追いかけてくる敵兵を切り最後は討ち死にした。家康は後に昌恒の子孫を探し出し二万石の大名にした。

 このように名誉ある死は本人の死後も子孫に遺産として受け継がれることが多々であったのである。しかも、それは昌恒の例を見るように有士の子は敵にも認められ面倒をみられることがあったのである。このように武士の世界と言うのは死ぬことが得となる社会だったのである。

それでは、逆に生き残った場合はどうなったのであろうか。名誉ある死の反対のケース不名誉な生、生き恥である。

 木下勝俊は先の鳥居元忠と共に伏見城に残った。木下という名字からもわかるように秀吉の親戚である。その際、数万の西軍の兵士に城が囲まれる前に逃亡しそのことが原因で妻にも愛想をつかされ、離婚された。また、関ヶ原後には改易処分となっている。討ち死にした鳥居の子孫が優遇されたのに対し対照的である。

大友義(吉)統は豊後(今の大分)の戦国大名である。秀吉の九州征伐に際して仇敵、島津氏から助けてもらい、後に秀吉に謁見した時に秀吉の「吉」の字と羽柴姓を与えられたことから秀吉に気に入られたようである。しかし、朝鮮出兵の際に味方を見すてて逃げたことから、秀吉の怒りを買い改易された。

このように戦争で逃げ帰り、例え生き残ったとしても土地を没収され路頭に迷うことになるのである。武士が家の相続を目標とした以上は、このような選択をするのは損をすることに他ならない。生きて子孫に家を相続できないのであれば「死んで子孫に託そう」という選択をとると言うのは、決して不思議な話はないのである。これが、死ねば得をする社会である。また、武士が名誉を大事にする理由は、自身の羨望を集めるものではなく、子孫のために残す功績であったのである。そして、討ち死にとは利益の交換に他ならず、それは、親の功績が子孫に受け継がれそれ如何によって子孫の進退が決まるその様子は「終世雇用」とも言えるものであったと考えるのである。

 

[i] 笠谷和比古『武士道と日本型能力主義』御家人株の取得

連載【戦国時代型労働思想】⑧戦国武士の労働者意識

 戦国武士と大名の関係は極めて対等に近い関係であったことを前節で述べた。そうであるならば、戦国武士というのはどのような考えで主に仕えていたのであろうか。本節ではその戦国武士の労働者意識を考察することにするのである

 それでは、関東の戦国大名千葉邦胤(くにたね)の話から見て考察してみる。以下は『千葉伝考記』に載っている話である。以下、旧字体は新字体に改め所々現代語訳に直して引用する

「千葉介邦胤横死の事」

「(前略)天正十六年(1558)年戌子正月初旬、新年のお祝いに毎年配下の者と宴をしていた。そこに鎌田万(萬)五郎という18歳の近習が配膳を勤めていたところ、二回オナラをした。そのことに邦胤が大いに怒りこれを叱った。しかし、万五朗は中央に赴き「このたびの失態は、仕方のないことなのにみんなの前で叱り、恥をかかせることは如何なものか」と、はばかることなく反論した。このことに邦胤は激怒し万五朗を蹴り倒し短刀に手をかけたのを家臣一同が言い含めて思い留まらせた。

 (万五朗は)閏五月中旬に許されて、働き始めたが、未だ(邦胤のことが)許せず二六時中、邦胤を殺す機会を伺い続けた。七月四日の夜に邦胤の寝床へ忍び入り二度刺して逃げた。邦胤飛び起きて「憎い小僧も何をする」という叫びを隣の部屋にいる者が聞きつけ寝床に入ってみると、邦胤は真っ赤に染まっており「鎌田を逃がせず生け捕れ」と言い残し亡くなった。家来が驚いて、あちこち探してみたけれども、見つけられなかった。しかし、鎌田は夜のことなので門が閉まっていたので、物陰に隠れていた。そして、明け方に塀を乗り越え逃走し、菊間村に落ちのびたが、追っ手がたくさんやってきたので、林の茂みに入り切腹した。」(近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948839/1 p111、112)

 

 新年の会で粗相をし、主君に叱られた家臣がそれに恨みをもって終には主君を殺害してしまうという凄まじい話である。

 さて、ここで注目するのがどうして万五郎が主君である邦胤を殺害するに至ったかである。ここでは近習たる万五郎の武士として主に仕えるべき忠義の姿勢が微塵も感じられないばかりか、半ば逆ギレに近いものであり、現代で例えれば遅刻を責められた部下が上司に暴行をしたというものであり、現代の倫理感で言えば理解を得られる行動ではないだろう。そのために戦国時代特有の何かの謀があり、暗殺したという考え方もできるが、この史料を見る限りその兆候は見られない。この史料から見られるのは、単に「気に入らないから殺した」である。しかも、騒動が起きたのは「一月」であり、万五郎が邦胤を殺害したのが「七月初頭」である。役六ヶ月の間、万五郎が主君である邦胤を恨み続けたことになる。単に万五郎が執念深く万五郎の性格に起因するものであれば話は簡単になるのであるが、万五郎に隠れて目立たないが、主君の邦胤も家臣に諌められて謹慎処分にしたものの一度は自身に反論する万五朗のことを刀を抜いて(おそらく)殺そうとした邦胤も異常であるといえば異常である。こうした現代人では推し量れない行為の背景にあるのは何だろうか。

 

清水克行は、『看聞日記』には祭りの日に不始末をした田舎人がそれを遊女に笑われたのに怒りその遊女を切り、続いてその主人をも切り殺し、切腹して果てたという記述があることから、室町人には強烈な名誉意識があったと述べる。しかも、その笑う・笑われることを原因とした殺傷事件が頻繁に起きてるということを見て清水は「この時代の人々は、侍身分であるか否かを問わず、みなそれぞれに強烈な自尊心「名誉意識」をもっており、「笑われる」ということを極度に屈辱に感じていたのである」(清水克行2006p16)と述べ、この時代の人間が強烈な自尊心を持っており、それを守るためになら相手を殺して屈辱を晴らすことも辞さなかったという倫理意識を持っていたことが分かる。

 次に清水は、応仁の乱での東軍総大将である細川勝元の少年期にもこんなことがあったことを説明した。囲碁をしている二人の少年の片方に勝元が助言をした。それに怒ったもう一人が自宅から刀を持ってきて、勝元に切りつけたのである。このことに関しても清水は「この時代の武士の間には、主従の間の上下の秩序よりも、みずからの自尊心や誇りを維持することの方がときとして優先され、それが「下克上」を生み出す原因ともなっていたのである。」(清水克行2006p27)そこらの町民同士のイザコザから殺人に発展するのならいざ知らず、この時代の人間は名誉を傷付けられれば「主殺し」をも行うというのである。

 このように見てみると、万五郎が邦胤を殺害した動機も邦胤や万五郎を殺害しようとした動機も理解できるものになる。万五郎は皆が集まる衆目の面前で、罵倒されたことで名誉を傷つけられたために憤慨し邦胤を殺害し、邦胤も普段なら格下である万五郎に衆目の面前で反論されたために主としての面目を失い許せなかったのであると考えられるのである。そしてこの万五郎や邦胤の持つ「名誉意識」こそが、この時代の武士たちの一つの労働者意識であると考えるのである。

 しかしながら、「名誉意識」といった場合に主君を殺すことは「不名誉」なのではないかという疑問がある。実際、現代では何か上司に言われれば黙って従うだの、会社のために滅私奉公をする愛社精神を持つのが美徳として語られている節もある。また、一般的にも武士というのは主君に対して殉ずることが名誉と考えられている。しかしながら、それとは全く逆の行動をとった戦国時代の武士を支えた名誉意識とはどのようなものだったのだろうか。

戦国時代に訪れたイエズス会宣教師ヴァリニャーノは日本巡察記のなかで

「この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末であるが、これによって彼らは名誉を失いはしない。(中略)実際、日本における主従関係ははなはだ放縦で、ヨーロッパにおけるとは異なり、諸領主の支配権なり地位は我等のものと違っているので、彼等の間に裏切りや謀反が起こるのは不思議とするに足りない」((著ヴァリニャーノ/訳松田武一他1973p17,18

 と、述べている。驚くべきことにこの時代の武士の意識としては、反逆することで名誉を失うこととは考えられなかったのである。これは、そもそも気に入らない主君には反逆をすることが当たり前だという当時の風俗があったのではないかと考えられる。